歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第三十二話 九州学院施設の変遷

九州学院の旧本館校舎、旧図書館、旧体育館等の一連の西洋式建物は非常にシックで荘厳な雰囲気を醸し出し、在校時はもちろん卒業してからも長く印象として残っています。100年以上前にどのような構想の下でそれらの建物は建築されたのでしょうか。また、当時としては非常に珍しくまた斬新な西洋風建築は誰によって設計されたのでしょうか。創設当時の教職員はもちろんのこと在校生もその荘厳さに圧倒されて、真に建学の志を強く持って、九州学院の歴史を築き上げてきたのではないかと推察されます。以下に、創設期間もないころ、創立20周年のころ、それ以降の3回に分けて現在までの九学キャンパスの建物群の変遷について、その歴史を紐解いてみることにします。

第1回:創設期から1916頃まで

キャンパス敷地選定の経緯

 九州学院設置の目的の一つは牧師を養成する神学部門を設けることにありましたが、九州学院の建設が遅れ、先に神学部門の「路帖神学校」が1909(明治42)年9月、新屋敷412番地に開校しました。1908(明治41)年C・L・ブラウンは米国から熊本に帰任するとすぐに九州学院建設のために具体的に取り組みました。1909(明治42)年11月に、当時の飽託郡大江村に土地を購入(坪2円50銭)しました。この辺りは一面桑畑で、近くには熊本製糸(長野製糸)がありました。その後も順次買い増しされて約1万坪の土地が取得できました(歴史余話第二十三話)。
 遠山院長の回顧によると、「薬専(現熊大薬学部)の裏の凹凸の多い土地も坪50銭ということだったが、そこは余り賛成者がいなく、現在の地を買い取った。」
 この敷地購入および校舎等建築のため、米国南部一致ルーテル教会では、1906(明治39)年に当時の金額で50,000ドルを支出することが決定されていました。

九州学院設立の認可とキャンパス計画

 1910(明治43年)1月10日の日付で熊本県知事あてに「私立学校設立認可稟請」を提出し、1月19日付けで熊本県から熊本県飽託郡大江村字大江477番地に設立の許可が下りました(歴史余話第二話)。このことをもって九州学院の創立は1月19日に設定され、毎年この日に全学で創立記念講演会が開催されています。

キャンパス構想と建設資金

 寄宿舎および雨天体操場等は1911(明治44)年開校時に竣工していましたが、キャンパスの中心となる本館校舎は工事が遅れ、1912(明治45)年4月に竣工しました。この2つの施設の設計者は知られていませんが、本館の施工業者は飯田組であることが判明しています。その後に建てられた主要な施設は、いずれもウィリアム・メレル・ヴォーリズ建築によるものです。
 1912(大正元)年頃発行された「九州学院要覧」にはヴォーリズ設計事務所によるキャンパス計画図が掲載されています。写真の奥が現在の電車通りで、手前が九学通りの旧東門に当たります。この設計図には旧本館と寄宿舎のほかに、キャンパスの北側にチャペルが描かれています。後に講堂(現ブラウン記念礼拝堂)が位置を変えて、正門から入った左側に建てられました。
 ヴォ―リズが九州学院の最初のキャンパス計画図を作り、講堂等の設計・建築を行ったことは同窓の間でも広くは知られていないようです。1924(大正4)年ヴォーリズ設計事務所による現在のチャペルの設計書の原板(青写真)が、九州学院歴史資料・情報センターに常設展示されています。

メレル・ヴォーリズ夫妻

メレル・ヴォーリズ夫妻

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 ヴォーリズは1905年に来日し、滋賀県近江八幡の商業学校英語教師として教鞭をとり、教育、医療、製薬の事業も展開し、1941年に日本に帰化しています。
 大正時代から昭和初期にかけて、関西学院、西南学院等、九州学院ブラウン記念礼拝堂、ルーテル学院本館、ルーテル熊本教会等のキリスト教関連施設や一般施設の設計者・教育者として活躍しました。
 ヴォーリズのこのような業績を記念して「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展 in 熊本」が2018(平成30)年1月16日~21日に熊本県立美術館分館で開催されました。その一環としてヴォーリズによって設計された建築物の現地見学会が1月21日に実施され、各地から多くの見学者がブラウン記念礼拝堂を実地に見学されました。その後、センターで展示している実際のチャペルの設計図や創設当時の種々の展示物を熱心に観覧し、大変感銘を受けられた様子でした(歴史余話第三十話)。

寄宿舎

 1911(明治44)年、キャンパス最初の建物として雨天体操場、院長住宅、職員住宅と共に完成しました。校舎の建設が遅れたのでこの年に入学した第1回生は一年生の時はこの寄宿舎の一階を教室として使用しました。1912(明治45)年に付属の食堂棟ができ、炊事場や浴室が設置されて廊下はコンクリートの研き出しテラスが付いたモダンなものになりした。1924(大正13)年玄関部分が増築されて南棟と北棟を連結してロの字型の建物となりました。
 当時からこの寄宿舎の前に植えられていた銀杏の木の1本は現在も1号館の東北に現存する記念すべき貴重なものです。
 創立50周年の記念事業として本館を建設するため、この寄宿舎は1961(昭和36)年に解体されました。この跡地に建てられたのが現在の1号館であり、1962(昭和37)年に落成しました。

1912(明治45)年ころの<br>寄宿舎の食堂部分

1912(明治45)年ころの
寄宿舎の食堂部分

1935(昭和10)年頃の<br>グランド側から見た寄宿舎

1935(昭和10)年頃の
グランド側から見た寄宿舎

1931(昭和6)年9月の1週間の寮のメニューは当歴史資料・情報センターの歴史余話第22話で詳しく述べられています。当時としては非常に吟味された献立で、発育途上の学年に十分のたんぱく質と脂肪が摂取されていたことがわかります。

雨天体操場

 1911(明治44)年、寄宿舎と同時に完成しました。1928(昭和3)年に後述の体育館が建設された折に、北側を増築して床にスプリングが入った柔道場となりました。昭和29年に九州学院中学校に入学した生徒は、ここで体育の授業を受け、背負い投げ等で投げられたとき、大きな反響音に驚いた経験があります。
 総合体育館が完成した1968(昭和43)年以降は生徒食堂として使用され、床の揺れる所で昼食をした思い出の場所でもあります。
 1985(昭和60)年に解体されましたが、現在の3号館の付近の院長住宅の横にありました。

1912(昭和12)年頃の雨天体操場

1912(昭和12)年頃の雨天体操場

解体直前の生徒食堂として利用された<br>旧雨天体操場

解体直前の生徒食堂として利用された
旧雨天体操場

本館校舎

旧本館校舎正面玄関

旧本館校舎正面玄関

 1912(明治45)年、木造二階建てで、各教室の壁には背中合わせの状態で石炭を焚く暖炉の暖房が設置されました。屋根の上の六カ所のレンガの煙突が特徴的な建物です。その暖炉は、戦争が始まるころから使われなくなりました。
 外壁は当初下見板張りでしたが、後に凹凸のあるモルタール塗となり、木造の骨組みはベンガラ色で彩られていました。このベンガラのエンジ色が、現在の九学カラーへと引き継がれていった可能性も考えられます。
 窓は上下スライド式のもので、中央の迫力のある玄関前は車寄せがありました。1階には玄関を入って右側に院長室、事務室、左側に職員室、両翼に東西4教室がありました。2階は全部普通教室になって
いて、戦時中は屋根の上に防空監視所が作られていました。
 1953(昭和28)年6月26日の熊本大水害により、白川や坪井川が氾濫し、熊本市内は甚大な被害を受けました。九州学院のキャンパスには大量の土砂が流れ込み、キャンパス内の建物は1m近く浸水しました。  その後、水害による影響と老朽化やグラウンドが手狭になってきたとのことから、太平洋戦争の戦火に遭うこともなく多くの卒業生を世に送り出してきた伝統ある本館校舎も、止むを得ず1974(昭和49)年に解体されることになりました。
 このことを聞いた卒業生達は思い出深い学び舎が無くなるのは忍びないと保存の運動が起き募金活動を始めました。その場での保存が無理なら一部でも保存をという声が上がり、日本船舶振興会などに資金の援助を画策しました。しかし、新築でなければ補助対象とならないことで断念をし、集まった募金を基に模型での保存に切り替え、山鹿灯製作者に依頼して五十分の一の本館校舎模型が約三百万円で製作されました(歴史余話第四話)。現在100周年記念歴史資料・情報センターに常設してあります。

1970年代の旧本館校舎

1970年代の旧本館校舎

1/50縮尺の旧本館校舎模型

1/50縮尺の旧本館校舎模型

剣道場

1914(大正3)年、雨天体操場(柔道場)の南に接続して建設され、鍵型で一体の建物となりました。戦後、学制改革で新制中学が発足してからは普通教室として一時使われました。

特別教室棟

 1914(大正3)年、本館の西(現在の3号館付近)に隣接し1階に理化教室、博物教室、標本室、2階には地歴教室、図画教室などから成る特別教室が建てられました。
 標本室は博物の上妻博之先生の研究の場であり、収集した動植物の標本や自身が作成された見本図など多数収蔵されていました。当時の生物部の中学生は油を浸した雑巾で丁寧にこの標本室を掃除するのが習慣になっていました。

1970年代の特別教室

1970年代の特別教室

東分寮

 1916(大正5)年、寄宿舎が収容しきれなくなり運動場の北側に民家を移設して建てられ、1918(大正7)年東側に同様なものが増設されました。現在のグラウンド直線コースの中央付近にありました。
 乾 信一郎著(上塚貞雄、旧9回卒)『敬天寮の君子たち』はこの寮をモデルにしたユーモア小説です。当時の寮の様子は次のようであったようです。
 「西の寮も東の寮も、この敬天寮二棟の建物は、敬天中学創立の際買収された敷地内にあった普通の民家で、取りこわされる運命だったのを、寄宿生の申込が余りに多数で本寮の方へ収容しきれなくなり、この古ぼけゆがみ朽ちた民家が、図らずも浮かび上がって、そのまま使用されて来たわけだから・・・・・中略・・・・・家と外界との境目にある障子類はどうやら曲がりなりに建具然として存在していたが、その他の、つまり部屋と部屋との仕切りに有るべき筈の障子、或いは襖の類は全くどこにも一枚も見当たらなかった。だから東の寮が約五部屋、西の寮も約五部屋と、口でこそ部屋々々になるのだが、事実は、一棟全体が、がらん洞の大きな一部屋になっているといった方がわかりがいい。これは寮生たちがその部屋々々に割拠して秘密主義に陥ることを未然に防ごうという、敬天寮の伝統精神を発現したものに他ならない。とはいえ、察するに、最初は襖障子もあったにはあったであろうが、いずれ元気溌剌たる先輩君子たちに依って、消耗し尽くされたのかも知れないのである。」

1918年頃の東分寮

1918年頃の東分寮

1916(大正5)年頃のキャンパス図

1916(大正5)年頃のキャンパス図

 九州学院の創設からわずか5年余りの歳月で、飽託郡大江村の桑畑に囲まれたキャンパスに、キリスト教主義の学校教育を旨とする特徴ある超モダンな西洋建築群が建てられたことは、当時としては大変脅威に感じられたのではないかと思われます。教職員はもちろんのこと在校生はこのような素晴らしいキャンパスに大変な誇りを持ち、建学の精神に燃えていたことが推察されます。

 次号では創立10周年および20周年を契機に、普通教室、講堂(現ブラウン記念礼拝堂)、図書館、特別教室(科学棟)、室内体操場、プール等が竣工し、一連の九州学院の建物・施設が完備されていった経緯について述べていく予定です。

(次号へ続く)

みなさんがご存知の九州学院の歴史をお教えください。

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