寄宿舎は南棟と北棟の2棟からなっており、その間の東側に玄関があったが、1938(大正13)年に南北両棟を連結してロの字の形となる。食堂と浴室は1912(明治44)年に西側の別棟にあり、食堂にはコンクリートの研出しのテラスが付いていてモダンなものであった。
創立50周年の記念事業として本館を建設するため、この寄宿舎は1961(昭和36)年に解体された。この跡地に建てられたのが現在の1号館であり、1962(昭和37)年に落成した。
この年から生徒の寄宿舎はなくなり、地方からの生徒は下宿することになった。学院の創立は寄宿舎の建設から始まった。このような経緯から、寄宿舎が必要との池永院長の強い希望から、新たに寄宿舎が再建されることになった
一方、将来の交通機関の発達などにより、入寮者の確保が困難になり財政的に圧迫するのではないかとの反対意見もあった。しかし、職員会議で熱心な討議がなされた結果、「寮の独立採算」を前提として4階建ての寮の建設に至った。1970(昭和45)年の2学期から新しく「敬愛寮」として発足した。
寮の運営は着実に進み1986(昭和61)年5月、西院長の発案で西棟が増設され現在に至っている。現在、東西両棟には男子の中学生20名・高校生100名の生徒120名が入寮している。女子の生徒の入寮は認められておらず付近の適当な所を紹介して斡旋している。
一般通学生は基本的には弁当持参だが、戦後早くから校内でパンの販売が行われてきた。その後、旧柔道場(創立時に建てられた雨天体操場)が生徒のための食堂として開設された。柔道場の跡であるため床がゆらゆら揺れていた事を覚えている卒業生も多いと思う。その後、現在の九學会館2階の学生食堂へと発展している。
記録に残っている1931(昭和6)年9月14日より9月20日までの献立表
9月14日(月)朝食 味噌汁(里芋)、沢庵
昼食 ボイルドビーフ(牛肉 ラード メリケン粉 *豆 黄砂糖)、菜漬
夕食 天麩羅、カラシ蓮根、茄子、ゴマ、菜漬
9月15日(火)
朝食 味噌汁(豆腐 小葱)、沢庵
昼食 カレイライス
(牛肉 馬鈴薯 玉葱 グリンピース 人参 メリケン粉 ラード カレイ粉)、沢庵
夕食 茶碗蒸(玉子 椎茸 竹輪 赤* 筍缶 出昆布 削節 味の素 春菊)、菜漬
9月16日(水)
朝食 味噌汁(南瓜)、沢庵
昼食 具飯(干竹 椎茸 干瓢 牛蒡 人参 春菜 揚豆腐 竹輪 蒟蒻)、菜漬
夕食 肴塩焼、胡瓜、沢庵
9月17日(木)
朝食 味噌汁(揚 粕 小葱)、沢庵
昼食 肉煮込(牛肉 馬鈴薯 玉葱 南瓜 里芋)、菜漬
夕食 巻寿し(椎茸 干瓢 人参 厚焼 おぼろ 春菜 浅草 玉子)、沢庵
9月18日(金)
朝食 味噌汁(和布)、沢庵
昼食 クリームチキン
(鶏肉 カホイシマン ピース バター 玉葱 メリケン粉 胡椒 オイル 玉子)、沢庵
夕食 ゼンザイ(黄砂糖 寒晒 小豆)、胡瓜粕漬
9月19日(土)
朝食 味噌汁(茄子)、沢庵
昼食 牛肉煮込(牛肉 里芋 馬鈴薯 玉葱 南瓜)、沢庵
夕食 ゴマメキンピラ(ゴマメ 牛蒡 油)、沢庵
9月20日(日)
朝食 味噌汁(豆腐 小葱)、沢庵
昼食 菜焼(牛肉 蒸菜)、沢庵
夕食 肴煮付(*折 茄子)、沢庵
1人1日平均額:
主食 10銭
副食 18銭
調味料 3銭
雑費 9銭
合計 40銭
食事は70名の給食だが、土曜日の夜と日曜日の朝と昼は60名。これは土日に実家へ帰省しての減数と思われる。
当時の生活状況から考えると、1人当たり40銭で1日の食事か提供されていたことは驚きである。いろいろとバラエティに富み、生徒の健康に配慮したご馳走だったことが伺えるメニューである。この時代の寄宿舎のクリスマス会ではケーキや七面鳥も出されていて、生徒たちは大変喜んだそうである。
[注]献立は当時の記録に基づき転記した、*は判読不明の文字である。