歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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 第ニ十一話 戦時下に、わずか半年余りの幻の「実務科」設置


九州中学校変更令

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 1939(昭和14)年のドイツのポーランド侵略により第2次世界大戦が始まり、欧米各国は戦争へと体制を換えていった。日本は1941(昭和16)年12月8日にハワイ真珠湾攻撃から米英に宣戦布告し、太平洋戦争へと機運が高まっていった。当然、市民生活にも大きな影響を及ぼすようになった。
 学院においても夏休みを前にしたこの年の7月に、「夏期勤労作業の概要」の説明が行われている。この頃になるとそれ以前からの勤労作業に増して、次第に県内はもちろんのこと、県外での勤労作業が常態化してきた。1942(昭和17)年には学院において「第1回目の防空訓練」が実施されている。
 この時代には「九州學院」という校名も、1943(昭和18)年に「九州中學校」に校名を変更せざるを得なかった。昭和18年4月21日の官報によると、この時の文部大臣は時の東條英機首相が短期間(4月20日から4月23日)兼務をしていた時期である。
 このような状況の中で、創立当時から九州学院では「普通科」を教育課程の中心に設置していたが、次のようなことで半年余りの短い間「実務科」なるものが置かれることになった。
 1945(昭和20)年の卒業年限を縮めて其の分を実業教育に充てるか、世に出して生産力の増強や軍事力の増強に充当した方が良いと言う観点から、中等学校の修業年限が1年短くなった。1944年勅令第八十号国民学校令等戦時特例により、1944年度の四年生から適用し、修業年限を四年とした。そこでこの年の四年生は、1945年3月に五年生と同時に卒業することになった。何ゆえに四年で卒業か定かでないが、一説によると当時上級学校の受験資格は中等学校四年終了までの修了で可であったたから、それに合わせたとの説もある。
 その結果として、四年で卒業させると軍需工場での勤労動員に不足が生じることとなり、急遽1945(昭和20)年1月13日に、熊本県内政部長より次のような通達が出された。

「新規中等学校卒業者の勤労動員継続並に之に伴う附設課程の設置に関する措置要綱」

(1)上級学校入学者 
(2)陸海軍(学校)に入隊(入学)する者
(3)国民学校令施行規則第百九條に依る助教となる者

等を除き卒業後も学徒たる身分を保有して引続き勤労を継続せしめ其の修得せる熟練技能を活用すると共に学徒勤労の長所を発揮して生産現場に於ける能率の一時的低下を防止せんとすとあり、次の中等学校は学徒勤労を継続すべき者を進学せしむる修業年限一ヶ年の附設課程を設置するものとす

(1)中学校  実務科

 このような処置に伴い1945(昭和20)年3月には30回生(5年生で卒業する者、169名)と31回生(4年生で卒業する者、227名)の合同の卒業式が実施された。 31回生は卒業と同時に実務科生となり、九州学院に工場疎開として体育館に設置されていた旋盤などで作業することになった。実際には連日の空襲警報により中止が続いたようである。
 戦時下での学院における生活も、8月15日の終戦のラジオ放送を畳もあげられていた柔道場で聞き、全ては終わった。

実務科は終戦と共に終わり、9月15日に解散式が行われ、わずか半年弱の幻の制度であった。
(関連記事:歴史余話第一話第七話第十九話第二十話

阿蘇の勤労奉仕

農家の手伝い

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