歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第九話 熊本バンドの精神を継ぐ九州学院

遠山先生を囲んでの花陵会特別伝道記念写真

遠山先生を囲んでの花陵会特別伝道記念写真 1915(大正4)年2月

◎ 熊本バンドの結成とその精神

 1876(明治9)年1月30日の日曜日、キリスト教を信奉するようになった熊本洋学校の生徒40名ほどが、いつものように洋学校教師キャプテン・ジェーンズ邸で礼拝を済ませた後、意を決して聖地・花岡山に登り、鐘懸松のほとりに陣取った。そして、ジェーンズの礼拝でよく歌った讃美歌461番「Jesus loves me(主われを愛す)」を英語で合唱し、横井小楠の息子・横井時雄が、ヨハネによる福音書10章の「イエスは良い羊飼い」の箇所をジェーンズからもらった英語の聖書で読んだ。一同、祈りを捧げた後、古荘三郎が立って「奉教趣意書」を読み上げた。「奉教趣意書」が読み上げられた後、金森通倫(みちとも)の司会で、一同、主イエスに祈りを捧げた。そして、35名が署名し、キリスト教への集団入信を誓った。
 「余輩(よはい)(かつ)西教(せいきょう)(まな)ブニ(すこぶ)(さと)(ところ)アリ」で始まる誓約文は、キリスト教の教えを日本に布教し、旧い封建的な教えに縛られている人民を啓発し、生命(いのち)を惜しむことなく日本の開明に努めることを神に対し誓約したものである。
 幕末最大の思想家で明治新政府の参与職に就いていた横井小楠は、明治2年1月5日、キリスト教を蔓延させたという風評によって京都で暗殺(斬殺)された。しかし、そのひとり息子の横井時雄がキリスト教信奉を表明したのである。時雄は座敷の一室に監禁され、母つせ(小楠の妻)は自害することを覚悟の上、キリスト教を棄教することを時雄に迫った。金森通倫も、座敷牢に入れられ、同じように棄教することを強要された。それでも、キリスト者としての道を貫いた者の多くが、ジェーンズの周旋によって、新島襄が創設した同志社英学校へと進学した。そして、熊本洋学校から京都に乗り込んだ英傑の一団は、開校されたばかりの同志社の礎を築いた。これが、後に「熊本バンド」と呼ばれ、札幌バンド、横浜バンドと共に、三大バンドとして、日本プロテスタントの源流の一つとなった。
 当時、まだキリスト教が邪教扱いされ排耶蘇の風潮が根強く、直後の明治9年10月24日に「神風連の乱」が起こる熊本で、この花岡山結盟は大変な衝撃を与えた。

◎ 九州学院と熊本バンドとの関わり

記念・早天祈祷会での写真

記念・早天祈祷会での写真 2015年1月30日

  明治9年に花岡山結盟がなされたとき、九州学院の初代院長・遠山参良(さぶろう)は、熊本洋学校5回生であった。同じ5回生には、後の大ジャーナリスト・徳富蘇峰(猪一郎)らがいた。遠山参良少年は、この時満10歳になったばかりで花岡山結盟には加わらなかったが、熊本バンドの先輩たちと共に同志社英学校に進学した。これが遠山参良のキリスト教精神との出合いとなった。
 九州学院が創設されて3年目の1914(大正3)年10月31日に、九州学院のキリスト教献身志望者で「黎明会」が組織された。そして、その中の15名の生徒が、創立者ブラウン博士が宣教師を務めていたルーテル熊本教会(水道町教会)で洗礼を受け、キリスト者となった。続いて翌大正4年1月には、45名の九州学院の教師と生徒たちが熊本教会でブラウン宣教師から洗礼を受けた。
 この年、1915(大正4)年1月28日から30日にかけて、第五高等学校花陵会(キリスト者青年会)主催で熊本バンド奉教39周年記念の演説会が、海老名弾正(同志社第8代総長、1920~1928)を招いて開催された。29日は9時から九州学院で伝道講演が行われ、翌30日には花岡山で奉教記念会が行われた。ブラウン宣教師から洗礼を受けた九州学院の生徒たちも、海老名弾正や遠山参良院長に連れられて花岡山に登り、熊本バンド39周年奉教記念会に参加した。
 そして、100年後の2015年1月30日に花岡山で行われた「熊本バンド139周年記念・早天祈祷会」では、九州学院理事長の長岡牧師が奨励を行った。阿部院長を始め、敬愛会や白羊会の生徒、キリスト教主義大学に進学する生徒たちが参加した。一同、讃美歌を合唱し、ヨハネによる福音書10章「イエスは良い羊飼い」が読まれ、「奉教趣意書」が高らかに奉読された。実に100年の時を経て、九州学院のキリスト教精神は引き継がれているのである。

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