歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

バックナンバー

第三十五話 戦時下の九州学院・機銃弾が貫通した学院長杯

Ⅰ部

前半

  1.  九州学院100周年記念歴史資料・情報センターには、古い優勝カップが展示されています。表から裏側へ向けて弾丸が貫通した1.5cm大の穴が空いている学院長杯です。
  2.  この学院長杯は、1931年・昭和6年10月1日から3日まで創立20周年記念行事が行われた際、3日目の体育デーで、校内野球大会の優勝カップとして作られたものです。武道大会や庭球大会、バスケットボール大会、絵画展覧会などが開かれ、平和で意気揚々とした20周年記念行事が催されました。それ以来、この優勝カップは学院長杯として代々受け継がれて来ました。九州学院の校歌が制定されたのも、この創立20周年のときで、それまでは折に触れ賛美歌を歌っていたのです。
  3.  1931年の世界状況は悪化の一途をたどっていました。9月18日、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破する柳条湖事件により満州事変が勃発。関東軍は「満州国」の建国へと向かいます。1937年・昭和12年7月7日の盧溝橋事件勃発によって日中戦争が開始され、日本は泥沼の十五年戦争へと突入していきます。
  4.  11月3日には熊本市で上海戦勝利祝賀の県官民合同戦捷(せんしょう)祝賀会や旗行列、提灯行列が行われ、九州学院の生徒も参加しています。12月6日には国民精神総動員大講演会が熊本市公会堂で開かれ、12日には南京陥落記念祝賀会が開催されました。このときの日の丸行列や提灯行列にも学院の生徒が参加しています。
  5.  1938年・昭和13年7月15日、日本政府は1940年アジア初のオリンピック夏季・東京大会と冬季・札幌大会の開催権を返上し、日本国内の世相は軍国主義一色となっていきます。7月21日には県下中等学校生徒の夏季集団勤労作業が開始され、学院の生徒も動員されました。5年前の昭和8年7月14日には、九州学院でもブラウン・チャペル南側に、御真影(天皇・皇后の写真)と教育勅語を納めた奉安殿が竣工し、稲冨院長によって式典が挙行されていました。
  6.  10月29日ヒトラー・ユーゲントが熊本を訪れた際には水前寺グラウンドで歓迎行事が催され、九州学院のブラスバンドも参加して演奏を披露しました。学校教育の現場にも次第に暗雲が覆ってきます。
  7.  1939年・昭和14年9月1日、ドイツ軍がポーランドに進攻して第2次世界大戦が始まると、3日にはイギリスとフランスがドイツに対し宣戦布告。欧米各国は戦争体制強化へと向かいます。この年の2月3日には「九州学院耐寒夜間行軍」が開催され、全学院生750人が参加。松橋まで往復48キロを行軍しました。
  8.  6日からの国民精神作興強調週間には「銃後ノ国民」としての自覚を促す朝礼説教が行われました。第2代稲冨院長は、6月から8月まで中支および満州に視察のため出張し、学院卒業生の前線兵士の慰問をしています。
  9.  1925年・大正14年4月、「陸軍現役将校学校配属令」が制定・公布されると、九州学院にも陸軍現役将校が配属されました。それ以降、学院の教育現場で軍事教練が常時実施され、12月には軍事教練の査閲が行われていたのです。

後半

  1.  1940年・昭和15年3月10日の紀元2600年陸軍記念日に、熊本の第6師団では日露戦争奉天会戦の模擬戦を花岡山で開催しました。それが熊本放送局から実況放送されると、学院生もラジオの実況に聴き入りました。
  2.  4月、稲冨院長はルーテル教会の要請を受けて、日米関係改善へ向けた米国各地での約半年にわたる時局講演のため渡米しました。現地ではカリフォルニア在住の卒業生とも会合を持ちました。
  3.  9月27日に「日独伊三国同盟」の調印が行われると、ミラー主事は宣教師会報告で、戦争と国家主義運動の「異常な時代」と表明しています。11月には熊本県「外国人教員に関する調査」が実施され、九州女学院長エカードと慈愛園長パウラスが辞任し、翌年帰国。九州学院のミラー主事夫妻も1941年・昭和16年3月に休暇・帰国し、シリンガー宣教師はスパイの嫌疑がかけられ解雇・帰国しました。
  4.  10月には学院で防空退避演習が行われ、11月1日には軍国主義体制下の創立30周年記念式典が挙行されました。ブラウン記念礼拝堂の正面聖壇には国旗「日の丸」が掲げられました。記念の体育大会も開催され、この学院長杯によって生徒たちの健闘が称えられたのです。記念行事が終わると、生徒たちは普段の勤労奉仕で桑畑開墾に従事しました。そして12月8日、ハワイ真珠湾攻撃によって米英に対し宣戦布告。日本は太平洋戦争へと突入しました。
  5.  1942年・昭和17年1月には、学院の教職員・生徒1,000名が、配属将校永田中佐の指揮のもと菊池神社往復15里・行程60キロの行軍を行いました。4月からは学院でも毎月8日に防空訓練が行われるようになりました。11月に熊本市文化報国会が発足すると稲冨院長は生活文化局長に就任し、翌年には大政翼賛会県支部常務委員と県文化委員会幹事長に就任します。
  6.  1943年・昭和18年、日本軍は南太平洋からの撤退を余儀なくされ戦局が厳しくなってきます。4月1日「中等学校令」が改正施行され、修業年限を4年に短縮。教科書が固定化されました。それと同時に「九州學院」が「九州中學校」と改称させられ、ミッションスクール色が払拭されました。校章も横文字の「KG」から「九學」に変更を命じられました。同じミッションの「九州女学院」も「清水高等女学校」に改称させられたのです。
  7.  九州中学校の生徒たちは、春は農村での勤労作業に動員され、秋は勤労奉仕団として出動し稲刈りの勤労作業に従事しました。9月には熊本市男女中等学徒延べ15,300名が飛行場の草刈り整備作業に動員され、学院生も飛行場で奉仕しました。
     1944年・昭和19年2月、県下中等学校生徒軍航空志願者の第1次合宿滑空訓練が帯山練兵場で開始され、九州中学校もグライダーを2機所有していて訓練に参加しています。4月21日には稲冨院長が県翼賛壮年団長に就任。第2代チャプレンを務めた稲冨院長は、それを「自らに負わせられる十字架として」負い通したのでした。

Ⅱ部

前半

  1.  1944年・昭和19年の5月には戦時下の増産作業の一環で校庭が畑に耕作され、6月には全校生徒が勤労作業に動員されました。4,5年生は鹿児島県鹿屋の海軍航空隊に動員され、1~3年生は各地での麦刈り勤労に動員。8月には鹿屋航空隊から帰ったばかりの4,5年生が菊池の花房飛行場の整地作業に動員されました。
  2.  9月には第2回学徒動員令により学院の4,5年生も健軍の三菱重工飛行機工場に動員され、1~3年生は校庭で防空壕の整備に従事。校庭の畑では唐芋と麦作りに励みました。県では学校防空の徹底を各学校長宛てに通達し、米軍の焼夷弾に対する防空態勢強化のため寄宿舎の天井板をはずす作業が行われました。11月21日には中国から米軍機B29・80機が九州西部に来襲し、熊本市花園町柿原に爆弾が投下されたのが熊本県下への空襲の始まりとなりました。
  3.  1945年・昭和20年3月、県で学校の兵器工場化が進められ、九州中学校も濟々黌・熊中・鎮西・尚絅とともに体育館等を工場化する準備に着手。この年度から修行年限が4年制となったため、5年生(第30回卒、169名)と4年生(第31回卒、227名)が同時に卒業。4月1日には九州中学校に実務科(修業年限1年)が設置されました。
  4.  九州中学校では授業はできる限り継続されましたが、連日空襲警報のため授業中止が続きました。3月18,19日には米軍艦載機が県内各地を空襲。健軍の三菱航空機工場が爆撃されて、市内の各学校等へ工場疎開が行われ、学院にも体育館に旋盤等が持ち込まれました。
  5.  7月1日夜半から2日未明にかけて、マリアナ基地から飛来した第73爆撃飛行団のB29・150機による大空襲では、熊本市内が壊滅的な被害を受けました。
  6.  空襲警報とともに寄宿舎にいた1,2年生は校庭の防空壕に退避。構内東南の体育館に焼夷弾が落ち、稲冨院長は生徒たちと共に消火・防火作業に当たり延焼を防ぎました。
  7. 稲冨院長が構内の院長宅から飛び出して行くときの様子を、子息・稲冨昭氏(第30回卒)が、こう回想しています。
     「父は空襲が始まるとすぐ学校に出かけるといって一度庭先まで行ってからまた帰ってきて『或いは今夜自分も爆弾で死ぬかもしれないので一言だけいい残しておく。自分はこの上着のポケットに聖書を入れている。自分は今迄全てのことをこの聖書を通じて祈り、信じる道を行って来た。これからもそうするつもりである。このことだけははっきり覚えておくように』といって出て行った」。
  8.  稲冨昭氏と同期で『九州学院七十年史』の著者・中田幸作氏は、このように書き記しています。
     「九学裏の竹下外科には血に染まった負傷者、火傷を負うた人たちが列を作って道に坐りこんで唸っていた。呻きながら死んでいく人もあった。・・・火焔(かえん)は奉安殿の塀向うまで道路もわからないほど焼き焦がしたのに、九学はこの大空襲のさいも何の被害も受けなかった。だが、上妻、田中(寅雄)、石村、井芹、富田の各教職員の家は焼かれ、石村は父親を失うという憂き目を見た」。

後半

  1.  九州学院の母教会である日本福音ルーテル熊本教会(当時・水道町教会)の会堂と新屋敷にあった宣教師館は焼失しましたが、「みどり幼稚園」の園舎は奇跡的に焼失を免れました。新屋敷で唯一残ったこのみどり幼稚園舎に、焼け出された田中寅雄一家が住むことになりました。昭和16年3月、帰国を余儀なくされた第2代園長パック宣教師に替わって、田中君代が第3代園長を務めていたのです。7月8日には、なんと熊本教会を焼け出され神水の慈愛園に身を寄せていた盲目の石松量蔵牧師が、このみどり幼稚園舎に歩いて通い主日礼拝を行いました。
  2.  石松量蔵は、1915年・大正4年6月に「九州学院神学部」を卒業した後、1年間「早稲田大学哲学科」で学び、大正6年8月から熊本教会の牧師として働いていました。その石松牧師が、『盲目の恩寵 盲人牧師の記録』(1965年・昭和40年6月1日発行、日本福音ルーテル羽村教会)で、昭和20年7月1日の熊本市大空襲のときの出来事を、このように回想しています。
     「(空襲警報となって)、やがて「熊本は危険」と知らせるので、書類をかかえて、美穂子と姪のシゲヲと、手伝いに来ている原口光義を連れて防空壕に入る。すぐに敵機が上空に来襲、焼夷弾を落す響がすさまじい。幾度となく会堂をのぞかしたが、此処には落ちなかった。空襲は約一時間半、午前一時に上空が静かになった。隣りの防空壕から声がして「近所の人達は一人もいなくなったから、のがれようではないか」というので、防空壕を出て電車通りに出ると、新市街の方から燃えてきた火の手は、凄まじい勢いで迫ってくる。北の方が静かなので通町の方に逃れ、坪井川を渡り、開公舎の方に逃れた。そこには多くの人々が居て、県庁の官舎から最初に焼かれたので逃れてきた人達が、種々話していた。午前三時には、会堂も牧師館も共に焼かれたようである。
  3.  漸く黎明の頃となると、デマが飛んでくる。艦載機が三十機程近づいて機銃掃射をするという。しかしこれはデマであって、そのまま夜が明けたのであるが、その夜の空襲には、B二十九が六十機程の編隊で熊本市の六割が焼かれてしまったのであった。町内会の世話人は、火災に会った人々の逃れ場所を指示したが、私等は慈愛園に行くことを決心した。十時頃第一女学校の校庭でめし一杯を与えられたのは言い得ない喜びであった。
     さて水道町に行ってみると、二十八年間自らの体のようにつかいこなした会堂や牧師館が全く灰燼にきしてしまっていた。しばし立ったまま感動に耽ったが、気を取りなおし、大甲橋を渡って、九州学院に至った。ここは無事であった。稲冨院長に会って、慈愛園に移る旨を述べ神水にむかう。慈愛園も空襲で、第三ホームと十坪住宅が焼け、幼稚園も燃えかかったがこれは消し止められた。私らは洋館の園長館に住むこととなったが、職員の人々は皆親切に労わり、不自由なく此処で過すこととなった。
  4.  かつて、東京教会の本田牧師が、空襲のため聖書までも焼かれて礼拝ができなかったと言っていたので、ガウンや聖書一組、その他わずかばかりの品物だが慈愛園に持参したので集会のできる準備はあった。古新屋敷の教師館(宣教師館)は焼けたが、みどり幼稚園舎は残り、田中家が住むことになったので、次の日曜日八日から、此処で礼拝をすることとした。出席者は十三名であったが、私は、神水から通って、此処を水道町教会の礼拝の場所に定めた。」
     熊本教会の礼拝は、昭和25年5月3日、水道町に現在の教会堂(ヴォーリズ建築)が献堂されるまで、このみどり幼稚園舎で行われたのです。
  5.  8月6日、広島に世界最初の原爆が投下されると、8日、ソ連が対日宣戦を布告。9日には長崎に原爆が投下され戦争終結へと向かう中、8月10日、県下各地に早朝より約210機の爆撃機が来襲。この熊本市第2次大空襲により中心市街地が焼失し、学院も米軍機の機銃掃射を受けました。これは当時学院の東側にあった騎兵隊や13連隊の兵舎を狙った攻撃の流れ弾によるものでした。その機銃弾が、本館屋内に置かれていたこの「学院長杯」を貫通したのです。そして、不運にも4年生の1名が銃弾の大腿骨貫通により亡くなり、1名が重傷を負いました。
  6.  当日本館教室で授業を受けていた松下勉氏(第32回卒)は、このように回想しています。
     「朝礼を終え教室に入ったところ、機銃掃射の音が雷のようにとどろきました。米軍機が超低空で飛来し、撃ってきたのです。命からがら逃げる途中、大たい骨を撃ち抜かれた隣のクラスの生徒がリヤカーで運ばれながら『痛か、痛か!』と叫ぶのを耳にしました。生徒は病院で死亡しました。…私と同じ16歳の何の罪もない少年の叫びが今も耳に残っています。あの友は私であったかもしれない・・・」。
     8月10日は当時1学期の最終登校日で、なんと終戦の5日前の出来事でした。翌日の11日から31日まで夏休みに入る前日に、この悲劇が起きたのでした。
  7.  8月15日、昭和天皇の「戦争終結詔書」玉音放送によって終戦を迎え、戦時体制下の学院の苦難の時代にも終止符が打たれました。1931年・昭和6年の創立20周年のとき作られたこの学院長杯は、14年におよぶ九州学院の激動の時代を見据えて来たのです。
  8.  第2代チャプレンとして、そして第2代学院長として、九州学院の激動の時代を牽引してきた稲冨肇院長は、「自らに負わせられる十字架として」軍国主義体制を主導する県翼賛壮年団長等の要職にあえて就いて、九州学院を守り導いたのでした。
     機銃弾が貫通した、この痛々しい学院長杯は、イエス・キリストが十字架に架かって人間の罪を贖(あがな)われた、その痛みを、暗に物語っているかのように思われてきます。

歴史余話ムービーはこちら ->

みなさんがご存知の九州学院の歴史をお教えください。

九州学院の歴史について貴重な写真や資料などをお持ちの方は、お手数ですが九州学院までお知らせください。

[ご連絡先] 九州学院事務室 TEL:096-364-6134