歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第三十四話 戦艦ミズーリ号艦上での太平洋戦争降伏文書調印式および戦後処理に関わった3人の九州学院OB

  1.  1945年・昭和20年8月15日、昭和天皇の「戦争終結詔書」玉音放送で太平洋戦争に終止符が打たれ、9月2日、日本の無条件降伏文書調印式がアメリカ第3艦隊旗艦・戦艦ミズーリ号艦上で行われました。この歴史的調印式に、九州学院で学んだ3人の人物が関わっていました。連合軍側の通訳として第28回卒業生・竹宮帝次氏と第23回卒業生・坂本トキオ氏、日本側の通訳として和田隆太郎氏がいました。
  2.  竹宮帝次氏は、日本の敗戦処理のために重要な働きをした代表的人物です。竹宮氏は、1923年・大正12年にアメリカ・カリフォルニア州に生まれ、ハイスクールまでアメリカで暮らして日本に帰国しました。1941年・昭和16年の日米開戦時は九州学院に在学し、当時18歳でした。1939年・昭和14年、排日運動の高まりに危機感を抱いた父親がアメリカを引き払い、祖父母の故郷・熊本で暮らすことを決意。竹宮家は一家を挙げてロスアンゼルスから引き揚げました。
  3.  九州学院はルーテル教会の宣教師や米国留学経験者が教鞭を執るなどアメリカとのつながりがあり、日系2世の受け入れに熱心でした。台湾や朝鮮半島からの生徒にも広く門戸を開いていました。当時の九州中学校に入学時16歳だった竹宮氏は、日本語があまりできず、まず日系2世対象の特別クラスで日本語を学びました。東門とチャペルの間にあった図書館で半年から1年間の日本語学習を経て、その後一般のクラスに編入し通常の授業を受けるようになりました。在学中に太平洋戦争が勃発し、日系2世の生徒たちは戦時中、敵国のスパイであるかのように憲兵から監視され尾行される辛い日々を送りました。
  4.  1943年・昭和18年に卒業すると、青山学院大学に進学。しかし同年の学徒出陣で海軍に入隊すると、特殊潜航艇の艇長として呉で訓練を受け小豆島の基地で出撃命令を待つ身となりました。しかし、終戦間際に海軍軍令部に転属となり、慶応大学日吉校舎にあった海軍の地下壕で米国のラジオ放送傍受をする任務に就きました。そして、海軍少尉として終戦を迎えます。
  5.  その竹宮少尉に大役が降りかかります。終戦後の8月27日、1週間後の9月2日の降伏文書調印式をひかえ、米国との事前折衝の通訳を命じられます。竹宮少尉は日本軍令部の参謀大佐らと駆逐艦「はつかぜ」で伊豆大島沖に停泊中のミズーリ号に向かい乗艦すると、士官室に通されました。交渉場所の士官室は関係者ですし詰めの状態で扇風機も役に立たず、汗を拭いながら話し合いを続けました。竹宮氏は、その時のことをこのように述べています。
     「乗艦の際、大佐の短刀とベルトは没収され、代わりに荷造り用のロープが渡され、交渉というよりも要求で、これが無条件降伏かと実感した。」
  6.  事前の打ち合わせは食事も与えられないまま、通訳としての任務は8時間にも及んだといいます。第3艦隊参謀長ロバート・カーニー少将から、「横須賀鎮守府および海軍航空基地の明け渡しに関する文書」と「横須賀占領軍司令官オスカー・バッジャール少将名による武装解除、海岸防備、宿舎、衛生などに関する指示書」が手渡されました。米軍の横須賀上陸とミズーリ号の停泊位置を事前に打ち合わせるのが目的でした。竹宮氏は、日本が不利にならないように誠心誠意交渉に臨み、日本の戦後処理に多大の貢献をしたのです。
  7.  8月30日、1万5000余名の米兵が軍艦から次々と上陸。横須賀鎮守府は米海軍基地となり、進駐が開始されました。竹宮氏は、これで軍隊から解放されると思いましたが、初代基地司令官となったオスカー・バッジャール少将は、竹宮氏を通訳に指名。9月2日の調印式を前に「全砲口を初桜へ向けた米艦数十隻を見事に東京湾内へ誘導した」ことや、通訳を超える行動力と英語力が高く評価されて、司令部配属を申し渡され、米海軍に雇用されたのでした。
  8.  以後、半世紀にわたり横須賀の米海軍基地に勤務し、港湾統制部最高責任者や民事部長を務め、横須賀基地と市民の橋渡しの役割を果たしました。1964年・昭和39年、アメリカ海軍の原子力潜水艦が日本に初寄港したときには、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使の会見を通訳したのも竹宮氏でした。米空母の初配備では地元調整に尽力し、池子住宅問題では、米幹部に日本の環境調査受け入れを説く一方、地元首長に、米軍の巨大な抑止力が地域の安定につながると説明し続けました。基地前でデモ隊と語ることもあったそうで、米軍側は竹宮氏を「大事な宝」(リンチ司令官)と呼び、海上自衛官、歴代外務次官にも信頼を寄せられる人物でした。
  9.  1997年・平成9年、73歳で在日米海軍横須賀基地司令部民事部長を最後に退職。米海軍横須賀基地池子支所には竹宮氏の功績を讃えてネーミングされたレストラン&バー「クラブ・タケミヤ」が、現在も基地で働く米海軍関係者のオアシスとして使われています。2010年、86歳で病没し召天されました。
  10.  1945年・昭和20年8月30日、ダグラス・マッカーサー太平洋方面連合軍総司令官が、神奈川県厚木基地に降り立ち記者会見を行いました。その時、国際新聞の付属将校としてマッカーサー元帥のすぐ背後に立ち、連合国と日本の記者団に対応したのが、第23回卒業生・トーマス時雄坂本でした。九州学院を卒業して、まだ7年しか経っていませんでした。坂本氏はマッカーサー司令部付のエリート情報士官で、ミズーリ号艦上での無条件降伏文書調印式でもマッカーサーの通訳として活躍しています。坂本氏は、実際に使用された降伏文書の草案の検分もしていました。
  11.  坂本氏は1918年・大正7年、サンフランシスコに近いサンノゼで8人兄弟の長男として生まれ、1934年・昭和9年、16歳の時に日本で教育を受けるため、父親の故郷である熊本へ帰されました。熊本では九州学院で4年間学び、1938年・昭和13年3月に卒業しました。父親は上益城郡矢部町の出身です。坂本氏はこのように振り返っています。
     「親は私が長男ということで日本で教育を受けさせました。九学では熊本市の九品寺におられた剣道の紫垣正弘先生に預けられ通学しました。おかげで剣道は二段。帰国して一時サンノゼで剣道を教えたこともありました。」
     紫垣正弘先生は、九州学院第1回卒業生で九州学院剣道教師、剣道八段の範士でした。1924年・大正13年に創設された「九州学院敬愛会」の会長を務めたキリスト者でした。
     九州学院で剣道二段の腕前となった坂本氏は、試合で全国を回り、軍事教練にも参加しました。教練の教官だった将校に日本の士官になることを勧められましたが、アメリカ人であることを理由に断ったため、教官は激怒し坂本氏を裏切者扱いしました。
  12.  九州学院を卒業すると同時に坂本氏は、カリフォルニアの家族に呼び戻されると両親と農業に従事し剣道も教えていました。1941年・昭和16年2月、初の徴兵制にかかり米国陸軍に入隊。一兵卒としてワシントン州で3ヶ月の歩兵訓練を受けた後、「日米開戦もありうるというので、語学学校の先生にならないか」という誘いを受けたのは、パールハーバー攻撃直前の11月初めのころでした。サンフランシスコのプレシディオ(軍用地)で60人の中の語学兵に選ばれ、陸軍情報部日本語学校がミネソタ州に移ると、第1期生として卒業しました。第1期生の中でも成績優秀だったので、そのまま陸軍情報部日本語学校の教官として残るように命じられ、第2期生以下を教えることになりました。坂本氏の家族は、この時アーカンソー州の強制収容所に収容され逆境の中にあったのでした。九州学院時代の4年間で学んだことが存分に発揮された時期でもありました。
  13.  1943年・昭和18年7月、坂本氏はオーストラリア・ブリスベンにあったマッカーサー司令部の連合軍翻訳通訳部に派遣され、ニューギニアからフィリピン上陸作戦に参加。日本軍の作戦書類の翻訳、捕虜の尋問、日本兵への投降の呼びかけなどの任務を果たし、まさに「マッカーサーの耳」となって働きました。ミズーリ―号艦上での無条件降伏文書調印式後はマッカーサー元帥の国連軍総司令部(GHQ)付きになり、以後3回10年間にわたって日本で勤務しました。
     坂本氏は、1970年・昭和45年1月に退役するまで、18年間軍務につき、朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加しています。退役後は、元陸軍大佐として住友銀行シアトル支店長の要職に就きました。
  14.  一方、1945年8月30日、マッカーサー元帥の厚木飛行場での記者会見の場で坂本氏が遭遇したのが、九州学院第22回生の和田隆太郎(ジミー・ワダ)氏でした。和田氏はハワイ太平洋学院から1935年・昭和10年7月15日付けで九州学院3年1組に編入学しています。坂本氏よりも1年早い1937年に卒業して、明治大学に進学。同大学では野球部に所属し、1941年6月にはハワイ遠征に参加しています。その後、日米開戦前に日本海軍の軍属として志願し、英語力を生かして、諜報通信関係の特信班で働きました。
  15.  9月2日、ミズーリ号艦上で日本の無条件降伏文書の調印式で、日本側全権の重光(しげみつ)葵(まもる)外務大臣の通訳を務めたのが、ハワイ出身の日系2世・和田隆太郎ではないかと言われています。
  16.  共にかつて九州学院で学んだ3人が、戦艦ミズーリ号艦上での無条件降伏文書調印式および戦後処理という歴史的な場面で遭遇していたのです。神の計らいとでもいうべきものを感じざるを得ません。

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