当時留学生という言葉を使ったかどうかは判らないが、昭和の初期からアメリカなど海外から九州学院へ入学する生徒が多くあった。
在外日本人の子供(二世)に、母国日本の文化を身に付けさせる為に日本で学ばせたいとの思いから、日本の中学校に進学を希望したもと思われる。
当時の公立学校では余り受入れなかったようだが、九州学院では広く門戸を開き、多くの二世や台湾および朝鮮半島からの生徒も受け入れていた。入学当初は日本語の力を付ける為に、東門とチャペルの間に有った図書館で半年から1年間の日本語の学習を受けてから、一般のクラスへ編入していた。
当時の寄宿舎は2棟からなり、二世同士が向こう側の窓へ英語で声を掛けると他の舎生が日本語で喋れと怒ったとか、図書館の前を通る時に前庭の芝生で英語の会話が聞こえてきて、外国に居るような気がしたという卒業生の話もある。
その二世の卒業生の多くが太平洋戦争の開戦で運命を大きく二分された。卒業して親元へ帰米した卒業生たちの中には、米国の軍隊に入隊して日本語の諜報活動に従事し、また日本に残っていた二世の中には日本側で軍事に従事した卒業生もいた。
その中のトーマス・坂本氏(昭和13年3月卒)は、昭和20年8月29日にマッカーサー元帥と共に厚木飛行場に到着し、9月2日の戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式の連合国側の通訳として立ちあった。その後,東京の連合軍最高司令部(GHQ)に勤務して、帰米後は住友銀行シアトル支店長として活躍した。
和田隆太郎(ジミー)氏(卒業年度不明)は日本に残り、日本海軍の軍属として諜報通信関係の通信班として働き、調印式には日本側に居たとも云われているが、残念ながら九州学院の資料では確認できない。奇しくも日本側と連合国側に対峙していたことになる。
武宮帝次氏(昭和18年3月卒)は九州学院を卒業後、大学在学中に学徒動員で海軍に入隊した。特殊潜航艇の艇長として呉で訓練中の終戦間際に、横浜日吉の慶応義塾大学にあった海軍の地下壕で海外ラジオ放送の傍受に従事していた。
武宮氏は終戦後の8月27日、相模湾に集結していた連合軍からの要請により海軍大佐2名とミズーリ号に乗艦して東京湾入口に敷設していた機雷の状況などの聞取りの通訳をした。艦内は蒸し風呂のような暑さの中、8時間にも及ぶ通訳を独りで務めた。その働きぶりが認められ、横須賀基地の米海軍司令部に以後永年にわたり通訳官を務めた。
後日、横浜の九州学院の同窓会で「私は未だ日本海軍少尉だ」と話していた。それは海軍を除隊しないまま米海軍司令部にいたからだと話していた。
九州学院の資料の中に、昭和16年11月に警察への報告として、“日系二世(二重国籍)調査に関する報告”には25名の氏名、住所、生年月日、出生地、帰来月日が記載され、昭和18年8月には県宛に“在外邦人子弟生活調査方に関する件”には14名の父兄氏名、原籍、生徒氏名、寄留先、学年の記載がある。
このような事から往時の日本で二世が調査や監視の対象になっていたことが伺える。