歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第十五話 創設者ブラウンの足跡(2)

ピーリーの家庭(佐賀)

ピーリーの家庭(佐賀)

南部一致ルーテルの宣教師たち

南部一致ルーテルの宣教師たち

南部一致ルーテル教会群

南部一致ルーテル教会群

C.L.ブラウン宣教師の熊本教会伝道

C.L.ブラウン宣教師の熊本教会伝道

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 1898(明治31)年11月6日、ブラウン夫妻がサンフランシスコから横浜に到着したことを知らせる電報が、佐賀のピーリー宣教師の許に届いた。ピーリー(Rev. Rufus Benton Peery, Ph.D.)はシェーラー(Rev. James A. B. Sherer, Ph.D.)と共に南部一致シノッドから派遣され、1893(明治26)年以来、佐賀で開拓伝道を行っていた。しかし、シェーラーが病気に罹り日本伝道から引退し、1897(明治30)年1月に帰米したため、その後任としてブラウン宣教師が派遣されて来たのである。
 ブラウン夫妻の来日を心待ちにしていたピーリーは、横浜から船便で到着した二人を長崎まで迎えに行き、佐賀に案内した。こうして佐賀に着任すると、佐賀滞留の2年余は日本語を勉強しつつ、1899(明治32)年秋、東京から遅れて佐賀に着任したウィンテル宣教師(Rev. J. M. T. Winther, D.D.)と共に、佐賀を中心にした伝道活動に献身した。この間、ブラウンは明治32年7月、熊本から長崎へ帰途の遠山参良と列車内で遭遇した。夏目漱石との面会後に、第五高等学校英語科講師招聘を受諾した遠山と運命的な出会いをしたのであった。
 1900(明治33)年6月1日、佐賀で第1回「教役者会」が開かれ、ブラウンは「オーグスブルク信仰ヶ條の歴史」(ルターの信条書)について講演した。また、同年7月12日~9月4日、ブラウン家族は避暑のため長崎・雲仙に赴いている。10月18~23日、ブラウンは超教派の「日本在留宣教師会議」に出席するため東京に赴き、24~30日に東京で開催された第3回宣教師大会に出席している。

◎ ブラウンの熊本での活動

  アメリカ南部一致ルーテル教会の佐賀での伝道活動が進展し、1898(明治31)年6月19日、「佐賀十字教会」が「日本福音路帖(ルーテル)教会」と改称され組織化されると、次の新たな開拓伝道地として選ばれたのが、当時の九州の中心都市・熊本であった。同年9月27日には、山内直丸牧師が熊本に着任し、ルーテル教会の福音の新たな種を蒔くに相応しい社会的・文化的環境の整った都市での伝道が始まった。ちなみに、山内直丸は日本福音ルーテル教会の最初の日本人牧師で、九州学院の創設にも尽力、校名「九州学院」の名づけ親でもある。
 1900(明治33)年12月14日、ブラウンは家族と共に熊本市新屋敷町435番地に移住し、熊本在留最初の宣教師として熊本伝道を開始した。翌1901(明治34)年10月24日には、ブラウンは遠山参良教授の周旋でブランドラム宣教師(聖公会)死去の後を受け、第五高等学校英語科嘱託講師となった。

ブラウン・ファミリー

ブラウン・ファミリー

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 1902(明治35)年4月1日、ブラウン夫妻に次男ロバート・マーシャルが誕生、長男チャールズ・アルフレッドは2年前に長崎で生まれた。同年12月11日、ブラウンは新屋敷町338番地の宣教師館に移り、精力的に伝道活動を行った。1903(明治36)年2月3日には、ブラウンは五高瑞邦館で開催された龍南会の演説競技会に、遠山弁論部長から招かれギターを演奏し、五高の学生伝道にも力を入れた。
 同年4月2日にはルーテル教会佐賀伝道開始10周年を記念し、佐賀で第5回教役者会が開かれ、記念祈祷会や祝会が催された。参加者は教会数4(佐賀教会、熊本教会、久留米教会、大牟田教会)、信徒数114名を数えた。
 ピーリーが帰米(1903年4月16日佐賀を出発)した後、ブラウンが日本におけるルーテル教会宣教師の中心的存在となった。同年11月23~25日、第6回教役者会が熊本のブラウン宅(新屋敷町435番地)で開催され、熊本がルーテル教会の伝道拠点地として重要視されるようになった。

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