若きブラウン
チャールズは牧師になるためにノースカロライナ州に帰り、サリスバリーに近いベサニー・アカデミーに入学し、そこの最高の牧師ルイス・ロースロック教授(Prof.Lewis Rothrock)の指導を受けた。チャールズはベサニー・アカデミーで準備をし、1892(明治25)年9月、17歳でバージニア州サーレムのローノーク大学の2年生に編入学した。
チャールズは誰もが認める勤勉家で、デモステネス文芸協会やYMCAの活動会員として活躍し、人望を集めた。ローノーク大学の教会の牧師C.アーマンド・ミラー博士(Rev.C.Armand Miller,D.D.)の敬虔な人格と洗練された学識の感化を受け、弁論家としての才能も開花させた。チャールズは4年間の研鑽を経て、1895(明治28)年、20歳で大学を卒業した。
同年秋、チャールズはフィラデルフィア市マウント・エーリーのルーテル神学校に入学し、正式にルーテル神学を修めた。そして、3年後の1898(明治31)年に23歳で卒業した。神学生としてのチャールズは、ルター派の注釈書に従って新約聖書の連続読解方法により福音書の研究に没頭し、神の職務(the holy ministry)のための準備に全力を尽くした。チャールズはルーテル神学校を卒業する前に、バージニア州グラハムの教会から招聘を受けていたが、卒業直前になって南部一致シノッドの伝道局から日本への宣教師を求める緊急の招聘状が送られてきた。チャールズはこの招聘を受理し、1898(明治31)年、南西バージニアシノッドの会議で按手礼(牧師就任式)を受けた。按手礼後の9月29日には、大学時代からの求婚相手バージニア・フランツ(Virginia E.Frantz)とサーレムで結婚式を挙げた。
チャールズ・ブラウン宣教師は、日本伝道の支持を訴える運動のため、南部一致シノッドにある地区の諸教会を広範囲に巡回旅行した後、共に日本伝道に赴く新妻を伴い、1898(明治31)年10月14日、日本へ向けて出帆したのであった。