歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第十四話 創設者ブラウンの足跡(1)

若きブラウン

若きブラウン

 九州学院の創設者チャールズ・ラファイエット・ブラウン(Charles Lafayette Brown)は、1874(明治7)年12月3日、北米ノースカロライナ州のアイデアル地方の農家に生まれた。チャールズが幼少の時、農業を営んでいた父親ロバートが商業に転じ、一家はシャーロットに移住した。母親スーザン・アメリアは敬虔な信仰と洗練された上品さを持った女性で、病苦に耐えながらも子ども達を愛情深く教育した。第五子のチャールズが9歳半の時、子ども達に変わらぬ信仰心を育んだ母親が病没した。そのため、チャールズは12、3歳になった頃、バージニア州リッチモンドの叔父の家に移り住み、そこに2年間滞在した。当初、リッチモンドでは印刷の技術を学んでいたが、第一英語ルーテル教会に出席するようになり、そこでモーザー牧師(Rev.J.S.Moser)からの教化薫育を受けて堅信礼を受けた。そして叔母の感化や友人達の勧告もあり、福音宣教の牧師になることを決意した。

 チャールズは牧師になるためにノースカロライナ州に帰り、サリスバリーに近いベサニー・アカデミーに入学し、そこの最高の牧師ルイス・ロースロック教授(Prof.Lewis Rothrock)の指導を受けた。チャールズはベサニー・アカデミーで準備をし、1892(明治25)年9月、17歳でバージニア州サーレムのローノーク大学の2年生に編入学した。
 チャールズは誰もが認める勤勉家で、デモステネス文芸協会やYMCAの活動会員として活躍し、人望を集めた。ローノーク大学の教会の牧師C.アーマンド・ミラー博士(Rev.C.Armand Miller,D.D.)の敬虔な人格と洗練された学識の感化を受け、弁論家としての才能も開花させた。チャールズは4年間の研鑽を経て、1895(明治28)年、20歳で大学を卒業した。

南部一致シノッド地図

南部一致シノッド地図

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 同年秋、チャールズはフィラデルフィア市マウント・エーリーのルーテル神学校に入学し、正式にルーテル神学を修めた。そして、3年後の1898(明治31)年に23歳で卒業した。神学生としてのチャールズは、ルター派の注釈書に従って新約聖書の連続読解方法により福音書の研究に没頭し、神の職務(the holy ministry)のための準備に全力を尽くした。チャールズはルーテル神学校を卒業する前に、バージニア州グラハムの教会から招聘を受けていたが、卒業直前になって南部一致シノッドの伝道局から日本への宣教師を求める緊急の招聘状が送られてきた。チャールズはこの招聘を受理し、1898(明治31)年、南西バージニアシノッドの会議で按手礼(牧師就任式)を受けた。按手礼後の9月29日には、大学時代からの求婚相手バージニア・フランツ(Virginia E.Frantz)とサーレムで結婚式を挙げた。
 チャールズ・ブラウン宣教師は、日本伝道の支持を訴える運動のため、南部一致シノッドにある地区の諸教会を広範囲に巡回旅行した後、共に日本伝道に赴く新妻を伴い、1898(明治31)年10月14日、日本へ向けて出帆したのであった。

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フィラデルフィアのルーテル神学校

フィラデルフィアのルーテル神学校

ブラウンが幼少の頃通った学校

ブラウンが幼少の頃通った学校

ブラウンの出身教会現在の第一英語ルーテル教会

ブラウンの出身教会
現在の第一英語ルーテル教会

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