歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第十二話 校訓「敬天愛人」と九州学院

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九州学院宗教部発行『敬天愛人』

九州学院宗教部発行『敬天愛人』
(大正13年2月1日発行)

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九州学院宗教部発行『敬天愛人』

サムエル・スマイルズとSELF-HELP
(遠山先生蔵書)

 開校3年目の1914(大正3)年4月、遠山院長によって西郷隆盛の愛誦語「敬天愛人」が校訓に定められた。「敬天愛人」が校訓となった経緯は、1913(大正2)年に行われた最初の県外修学旅行で、引率者の藤井寅一教頭が、西郷が揮毫(きごう)した書の石刷りを持ち帰ったのがきっかけである。遠山院長が修学旅行団のことを事前に連絡していた、メソジスト鹿児島教会の柳原直人牧師から藤井教頭が貰い受けて来たのである。それを協議のうえ、大正3年4月15日に遠山院長が校訓として定め発表したのである。
 しかし、校訓としたからと言って『西郷南洲遺訓』に表明された西郷の敬天思想及び陽明学的人倫思想を九州学院の人格教育の標語として採り込んだという訳ではない。「敬天愛人」が、九州学院のキリスト教主義人格教育の理念を象徴的に表す標語として用いるのにふさわしかったのである。
 そもそも「敬天愛人」は西郷隆盛が最初に用いた語ではない。諸橋轍次博士の『大漢和辞典』の「敬天愛人」の項には「西郷南洲の語」と解説があり『西郷南洲遺訓』中の一文を引証しているが、西郷の造語というのは間違いで、西郷が愛誦し揮毫した語(四字成句)と解すべきである。
 「遠山参良先生蔵書遺本」(九州学院所蔵)中に、サミュエル・スマイルズ(SAMUEL SMILES)の著書“SELF-HELP”(『西国立志編』)と“CHARACTER”(『西洋品行論』)の洋書がある。遠山院長が愛読し、第五高等学校や九州学院などで教材に使ったのかもしれない。実際、泰西自由主義が標榜され民権道徳が教授されていた徳富蘇峰の「大江義塾」(明治15年3月~19年12月)では、修身の教科書として『西国立志編』、『西洋品行論』が採用されていた。
中村正直(敬宇)

中村正直(敬宇)

 “SELF-HELP”(1859年発行)は、中村正直(号・敬宇=敬天)によって1871(明治4)年7月に『西国立志編 原名 自助論』として訳出出版され、福沢諭吉の『学問のすすめ』(明治5年2月~9年11月出版)と共に明治の二大啓蒙書となった。「明治の聖書」と言われ、当時の日本で総計百万部は出たといわれるほどのベストセラーとなった。このイギリスのブルジョア的勤勉立志を説いた『西国立志編』は、近代国家と資本主義の形成期にあって、封建的な儒教に替わりうる西洋のキリスト教的道徳を教示してくれる書として多くの青少年に光明を与えた。
 中村正直は1868(明治元)年6月イギリス留学から帰朝し、10月静岡学問所が開設されると、一等教授に任命され「敬天愛人説」を著した。この著述で、中村正直が日本人として初めて「敬天愛人」を使ったのである。そして、静岡で中村から訓えを受けた薩摩藩士最上五郎から、西郷は「敬天愛人説」を伝え聞き、敬天の思想に目を見はった。
 明治4年『西国立志編』が刊行されると、たちまち全国に流布し、「明治の聖書」といわれる啓蒙書となった。明治6年征韓論に破れ鹿児島に下野していた西郷隆盛も、当然この著書の「敬天愛人」の精神に深く共鳴したに違いない。以後、西郷は「敬天愛人」を愛誦語として書き記し、それが広く世に知れ渡るようになったのである。
 「天はみずから助くるものを助く」(Heaven helps those who help themselves.)で始まる“SELF-HELP”『西国立志編』の「自助の精神」が、九州学院の校訓「敬天愛人」の基底にはある。さらに、聖書の福音(「マタイによる福音書」22:37~39)を原典とすることによって、教訓「自分で自分を監督し、役に立つ善人となれ」とともに、遠山院長が構想したキリスト教主義学校の根幹を支える建学の精神となったのである。

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