同窓会からのおしらせ

降伏文書調印式事前交渉で活躍 竹宮帝次氏(旧中28)

[2015/08/17]

  今年は戦後70年の節目あたることから、8月15日の終戦記念日を中心に連日新聞、テレビなどで戦争の悲惨さが伝えられています。

  みなさんは、9月2日に戦艦ミズーリ号で行われた降伏文書調印式に3人の九学OBが関わっていたことをご存じでしょうか。

  実は、日米のそれぞれの通訳の中に、九学の卒業生がいたのです。連合軍側の通訳のナンバー2が坂本トキオ氏、そして日本側の通訳の内の一人が和田隆太郎氏でした。

  さらにもう一人、日本の敗戦処理のために重要な働きをしたのが竹宮帝次氏なのです。竹宮氏は終戦直後の昭和20年8月末、駆逐艦「初桜」で、米側の要求を聞くため二人の日本軍の代表と伊豆大島沖の戦艦ミズーリ号へ乗りつけ、米兵に囲まれながらの進駐交渉の通訳を行いました。

  竹宮氏は1923(大正12)年、日系2世として米ロサンゼルスに生まれ16歳で帰国し九州学院で学び、青山学院に進学します。そして学徒動員で旧日本海軍の予備学生となりますが、その卓越した語学力と人間性が評価され、通訳として大役を任されることになるのです。 竹宮氏は艦内での8時間に及ぶ交渉の中で、日本が不利にならないように誠心誠意交渉に臨み、日本の敗戦処理に貢献したのです。

  9月2日の調印式を前に「全砲口を初桜へ向けた米艦数十隻を見事に東京湾内へ誘導した」(米関係者)ことや、通訳を超える行動力と英語力が買われ、戦後は米軍に引き抜かれ、米海軍横須賀基地民事部長、日本人唯一の港湾統制部最高責任者などを歴任し、半世紀にわたり、日米の橋渡しをしました。昭和39年、当時のライシャワー大使が米原潜の日本初寄港を発表した会見を通訳し、米空母の初配備で地元調整に尽力。池子住宅問題では、米幹部に日本の環境調査受け入れを説く一方、地元首長に、米軍の巨大な抑止力が地域の安定につながると説明し続けました。基地前でデモ隊と語ることもあったそうで、米側は氏を「大事な宝」(リンチ司令官)と呼び、海上自衛官、歴代外務次官も信頼を寄せるほどの人望のある方でしたが、2010年、86歳で病気により惜しまれて天に召されました。

  歴史の大舞台の裏で九州学院の先輩方が実に素晴らしいお働きをされていたことは同窓生の誇りです。二度と戦争のない平和な世の中であり続けることをお祈りします。

*2011年、九州学院は創立百周年の記念事業の一環として、竹宮氏の功績を称えた記念特別番組「百年の想い世代を超えて〜敬天愛人のもと・今、明かされる九学百年ドキュメント〜」を制作しTKUで放送しました。

        <写真: 中央で海図を指さしながら通訳にあたる竹宮氏>

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