歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第二十四話 遠山参良の熊本洋学校時代

 1875年(明治8年)9月、9歳の遠山参良(さぶろう)少年は、キャプテン(大尉)ジェーンズが教鞭をとっていた熊本洋学校(明治4年9月1日開校)に5回生として入学した。熊本洋学校は私立学校であったが、明治維新後の開明的実学教育推進のため熊本藩・細川護久(もりひさ)知藩事の全面的な支援により、学資は一切校費で無料、書籍文房具より食料まで全部支給された。全寮制による全人格教育を行い、読本、数学、地理、歴史、物理、化学、地質、天文の学科の教科書をすべて英語の原書を使用し、授業はすべて通訳を用いず、英語でジェーンズ自ら行った。
 ジェーンズに直接教えを受けた成績優秀な生徒が後輩の学習を指導し、自らの学習効果も向上させるといった「自助の教育」が行われていた。知識修得のための教育課程よりも、むしろ、教科修得のための努力や生徒個人の品性を高める人格教育が重んじられた。豪放闊達なジェーンズは、競争率10倍の難関を突破して入学した洋学校の優秀な生徒たちに対し、厳格な指導を通して「自助の精神」を徹底した。その徹底ぶりは徳富猪一郎(蘇峰・徳富一敬の長男)といえども例外視されず、1回生として入学したものの、年齢が不足し学業に見込みがないとして一旦退校させられ、4年後の明治8年に14歳で5回生として再入学している。1回生46人のうち卒業したのは11人、2回生は入学生72人のうち卒業したのは同じく11人であった。20人が入学した5回生の同期には、再入学した徳富蘇峰の他に、原田助(後・同志社社長、ハワイ大学教授)、蔵原惟郭(これひろ・エジンバラ大学、熊本英学校長、熊本女学校長)、そして、遠山参良(さぶろう)がいた。

「熊本バンド」の結成

 熊本洋学校が開校して4年後の明治8年になると、ジェーンズ宅で日曜礼拝が行われるようになった。
ジェーンズの熱烈な大説教の礼拝が終わると、洋学校の生徒たちは寄宿舎に帰って昼食をすませ、それから花岡山に登った。山上で互いの信仰について語り合い、議論を闘わし、「鐘懸松」の下にひざまづいて祈り合った。ここでの祈祷会を「天拝会」と呼んだ。
 しかし、洋学校の生徒たちは伝統的な儒学思想によって育てられているためキリスト教を耶蘇教と言って反対し、洋学校からキリスト教信奉者を追放する運動を始めた。肥後勤王党の流れを汲む敬神党(神風連)も不穏な動きを見せ始めていた。そうした中で、キリスト教信仰に目覚めた生徒たちは、奉教結盟を実行し、キリスト教信仰者の団結を図ることになった。
 1876年(明治9年)1月30日の日曜日、いつものようにジェーンズ宅で礼拝を済ませた午後、意を決した洋学校の生徒たちは聖地・花岡山に登り、鐘懸松のほとりに陣取った。そして、夕刻、「熊本バンド」結成の天拝会が開催された。英語で讃美歌「Jesus Loves Me(主われを愛す)」を歌い、ジェーズからもらった英語の聖書「ヨハネによる福音書第10章『イエスは良い羊飼い』」を読み、祈りを捧げた。そして、「奉教趣意書」を読み上げ、35名が署名(血判)したのである。署名した者は、キリスト教の教えを我が国に布教し、命を惜しむことなく我が国の開明に努めることを、上帝(神)に対して誓約した。これは、キリスト教への集団入信を誓う結盟であった。「熊本バンド」が結成されたのである。
 しかし、この結盟は大変な弾圧と迫害を受けた。この年の8月、熊本洋学校は廃校となり、奉教を貫いた者の多くがジェーンズの周旋によって新島襄が主宰する同志社へと進んだ。10歳になったばかりの遠山参良(さぶろう)少年は「熊本バンド」の一員には名を連ねてはいないが、熊本バンドの英傑たちに引き連れられて、先輩たちと一緒に同志社に進んだ。この花岡山の結盟の出来事は、遠山参良(さぶろう)少年の魂にとって鮮烈な体験となったに違いない。そして、少なからず、ジェーンズの熊本洋学校で受けた「自助の教育」が、後の九州学院の教育理念に影響を与えていると言ってよい。
花岡山結盟

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