歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第十一話 遠山先生とブラウン博士の出会い

 1899(明治32)年7月中旬、遠山参良は第五高等学校英語科講師招聘の件で、当時の英語科主任であった夏目金之助(漱石)教授と面会し、8月に英語科講師として赴任する内定を得た。漱石との面会を終えて熊本から長崎へ帰る途中、佐賀駅から長崎行きの列車に乗り合わせたC.L.ブラウン宣教師と遠山は運命的な出会いをする。
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九州鉄道線路案内(明治43年3月30日・九州鉄道管理局営業課、<br>遠山蔵書)

九州鉄道線路案内
(明治43年3月30日・九州鉄道管理局営業課、遠山蔵書)

列車時刻・運賃表(明治43年、「九州鉄道線路案内」)

列車時刻・運賃表
(明治43年、「九州鉄道線路案内」)

 遠山参良先生遺本蔵書の『九州鐡道線路案内』(明治43年3月30日発行、九州鐡道管理局営業課)によると、九州鉄道で池田駅(上熊本駅)から鳥栖経由で長崎線の佐賀まで5時間程、更に佐賀から長崎まで5時間近くかかり、熊本から長崎まで10時間程度の列車の旅となる。
 長崎には既に先進新教各派の教会や宣教師館があり、メソジスト系の鎮西学館や活水高等女学校が存立していた。アメリカのミッションボードからの船便は横浜経由で長崎に届く。当時、ルーテル佐賀教会を拠点に熊本教会で伝道活動をしていたC.L.ブラウン宣教師は、何かにつけ長崎に出向いていたのである。
 ブラウンは佐賀駅から長崎行きの列車に乗り込むと、周囲の乗客とは異色の紳士然とした人物の前の座席に、誘われるように腰を下した。アメリカ仕込みの流暢な英語で話し掛けるクリスチャンの紳士こそ、出島美以教会でデビソン宣教師らの通訳や説教、演説までこなすミッションスクール鎮西学館の青年教師遠山参良(33歳)であった。若いブラウン宣教師(25歳)はこの遠山に関心の目を注ぎ、やがて話が弾みお互いに意気投合した。これがブラウンと遠山の運命の出会いとなった。

◎ 九州学院創立への導き

 更に遠山は、当時の九州最高学府である第五高等学校に翌月赴任することになるという。五高のある熊本は、ルーテル教会が熊本教会を拠点として伝道を展開している九州の中心都市で、ブラウンも機会あるごとに伝道に赴いている新天地である。漱石との面会が契機となって遠山参良とブラウンが出会い、それが12年後の1911年九州学院創設へとつながる。まさに神の計らいによる奇縁であった。
 1900(明治33)年12月14日、ブラウン一家は来熊して新屋敷町に居を構え、熊本在留最初の宣教師として熊本伝道を開始した。翌年、熊本での伝道生活が落ち着くと、遠山参良教授(漱石の後を受け英語科主任教授であった)の周旋で、明治34年10月24日からブラウンは五高英語科嘱託講師として教えることになった。前年12月に亡くなった聖公会宣教師ブランドラムの後任であった。因みにブラウンの五高講師在任期間は、明治34年10月24日~35年8月31日、明治37年9月15日~39年12月31日である。
 ブラウンは五高の学生への伝道にも力を入れた。明治36年2月3日に五高瑞邦館で開催された演説競技会に遠山弁論部長から招かれたブラウンは、演説の幕間と終了後に得意なギターの演奏をしている。花陵会の賛助会員にも遠山参良や山内直丸牧師(ルーテル熊本教会)らと共にブラウンも名を連ねている。こうして、日本最初のルーセランスクール九州学院の創設へ向けた歩みが始まったのである。

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