歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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三十六

2014年度 創立者の精神を覚える会 講演を基に

初代院長遠山参良先生と創立の精神『敬天愛人』

第1部 遠山参良(サブロウ)少年と熊本洋学校

  1.  九州学院の設立者C.L.ブラウン博士とともに九州学院の礎を築かれたのが、初代院長遠山参良先生でした。常に「自分で自分を監督し、役に立つ善人たれ」と学院生を教育され、多くの「善き人々」を世に送り出されました。キリスト教学校「九州学院」の教育のゆるぎない根幹を形づくられたキリスト者であり、偉大な教育者でした。
     九州学院では、例年、遠山先生の召天日である10月9日に、「創立者の精神を覚える会」を行っています。今回は、『九州学院百年史』を執筆・編集した私・藤本が、2014年の「創立者の精神を覚える会」で講演をした内容に関する「歴史余話」です。
  2.  遠山先生は、1866年(慶応2年)1月11日、八代郡(現・八代市)網道(おうどう)村に生まれ、鏡町165番地で暮らされました。
    この年は、土佐藩士・坂本龍馬の周旋で薩長同盟が成立し、徳川慶喜(よしのぶ)が15代将軍に就任した、まさに幕末でした。
    第五高等学校の履歴書には、「トオヤマ サンロウ」と記されていますが、これは公称(字・あざな)で、本名(諱・いみな)は「トオヤマ サブロウ」です。
  3.  遠山参良(サブロウ)少年は、1873年・明治6年7月、7歳で八代郡鏡町小学校に入学。明治8年9月まで鏡町小学校で学びました。鏡小学校は鏡ケ池の南、印錀(いんにゃく)神社の東にあります。印錀神社には蘇我石川宿禰(すくね)が祭られており、1198年・建久9年に球磨地頭の相良長瀬が弟の為頼に命じて、鏡ケ池の近くに社殿を建立したものです。春季大祭には「鮒取り神事」が行われ、国内でも珍しい神事の一つとして知られています。「サブロウ」少年もこの印錀神社で遊んだに違いありません。喧嘩の強いガキ大将だったそうです。
  4.  明治8年9月、9歳の遠山参良(サブロウ)少年は、キャプテン(大尉)ジェーンズが教師として教えていた熊本洋学校(明治4年9月1日開校)に5回生として入学しました。
     熊本洋学校は私立学校でしたが、明治維新後の開明的実学教育推進のため熊本藩・細川護久(もりひさ)知藩事の全面的な支援により、学資は一切校費で無料、書籍文房具より食料まで全部支給されました。全寮制による全人格教育を行い、読本、数学、地理、歴史、物理、化学、地質、天文の学科の教科書をすべて英語の原書を使用し、授業はすべて通訳を用いず、英語でジェーンズ自ら行いました。そして、ジェーンズに直接教えを受けた成績優秀な生徒が後輩の学習を指導し、自らの学習効果も向上させるといった「自助の教育」が行われていました。知識修得のための教育課程よりも、むしろ、教科修得のための努力や生徒個人の品性を高める人格教育が重んじられました。
  5.  豪放闊達なジェーンズは、競争率10倍の難関を突破して入学した洋学校の優秀な生徒たちに対し、厳格な指導を通して「自助の精神」を徹底しました。その徹底ぶりは徳富猪一郎(蘇峰・徳富一敬の長男)といえども例外視されず、1回生として入学したものの年齢が不足し学業に見込みがないとして一旦退校させられ、4年後の明治8年に14歳で5回生として再入学しています。1回生46人のうち卒業したのは11人、2回生は入学生72人のうち卒業したのは同じく11人でした。20人が入学した5回生の同期には、再入学した徳富蘇峰の他に原田助(後・同志社社長、ハワイ大学教授)、蔵原惟郭(これひろ・エジンバラ大学、熊本英学校長、熊本女学校長)、そして、遠山参良(サブロウ)がいました。
  6.  ジェーンズは熊本洋学校の教育について、このように記しています。
     「私はひそかに、この学校は当初から自助の原則―天は自ら助くる者を助く―に従おうとした。」
     このジェーンズの自助の言葉は、1858年に刊行されたサミュエル・スマイルズの“SELF-HELP”(『自助論』)に拠っています。その巻頭に記されているのが、“Heaven helps those who help themselves.”「天は自ら助くるものを助く」です。自助の精神とは、他人の力に頼らず、自分の力で物事を成し遂げる精神のことです。天の神様は、自らの努力によって自立した人間こそ認め助けられるということを言っています。
  7.  こうした熊本洋学校の教育理念は、九州学院の建学の精神にも通じるものがあります。遠山先生が創立当初から掲げられた「自分で自分を監督し、役に立つ善人たれ」という教育目標は、まさに「自助の精神」を基にしているものです。九州学院も開校当初は寄宿舎で授業を行ない、大変厳格な人格教育が行われました。122人が入学した1回生で、5年後の大正5年に卒業したのは約3分の1のわずか42人という厳しさでした。遠山参良(サブロウ)少年が熊本洋学校で学んだのは1年間だけでしたが、初めて本格的に英語で学んだ西洋の最新の学問とキリスト教精神は、参良(サブロウ)少年に計り知れない影響を与えたに違いありません。
     「自助の精神」をキーワードにした「ジェーンズ・熊本洋学校と遠山参良・九州学院」について、2012年に出版された熊日新書『ジェーンズが遺したもの』に私が詳しく書いていますので、読んでみてください。
  8.  熊本洋学校が開校して4年後の明治8年になると、ジェーンズ宅で日曜礼拝が行われるようになりました。ジェーンズの熱烈な大説教の礼拝が終わると、洋学校の生徒たちは寄宿舎に帰って昼食をすませ、それから花岡山に登りました。山上で互いの信仰について語り合い、議論を闘わし、「鐘懸松」の下にひざまずいて祈り合いました。ここでの祈祷会を「天拝会」と呼びました。
     しかし、洋学校の生徒たちは伝統的な儒学思想によって育てられていますのでキリスト教を耶蘇教と言って反対し、洋学校からキリスト教信奉者を追放する運動を始めました。肥後勤王党の流れを汲む敬神党(神風連)も不穏な動きを見せ始めていました。そうした中で、キリスト教信仰に目覚めた生徒たちは、奉教結盟を実行し、キリスト教信仰者の団結を図ることになりました。
  9.  1876年(明治9年)1月30日の日曜日、いつものようにジェーンズ宅で礼拝を済ませた午後、意を決した洋学校の生徒たちは聖地・花岡山に登り、鐘懸松のほとりに陣取りました。そして、夕刻、熊本バンド結成の天拝会が開催されたのです。英語で讃美歌を歌い、ジェーンズからもらった英語の聖書を読み、祈りを捧げました。そして、「奉教趣意書」を読み上げ、35名が署名したのです。署名した者は、キリスト教の教えを我が国に布教し、命を惜しむことなく我が国の開明に努めることを、上帝(神)に対して誓約したのでした。これは、キリスト教への集団入信を誓う結盟でした。後の「熊本バンド」が結成されたのです。
  10.  しかし、この結盟は、大変な弾圧と迫害を受けました。この年の8月、熊本洋学校は廃校となり、奉教を貫いた者の多くがジェーンズの周旋によって新島襄が主宰する同志社へと進みました。10歳になったばかりの遠山参良(サブロウ)少年は「熊本バンド」の一員には名を連ねませんでしたが、熊本バンドの英傑たちに引き連れられて、先輩たちといっしょに同志社に進みました。この花岡山の結盟の出来事は、遠山参良(サブロウ)少年の魂にとって鮮烈な体験となったに違いありません。  詳しいことは、『九州学院百年史』(2012年11月1日発刊、学校法人九州学院)の「熊本バンドと奉教趣意書」に書いています。

第2部 熊本バンドの精神を引き継ぐ同志社、九州学院

  1.  花岡山結盟「熊本バンド」の精神は、遠山参良先生および九州学院の創立の精神に引き継がれています。
  2.  九州学院開校4年後の1915年(大正4年)1月28日から30日にかけて、第五高等学校花陵会主催の演説会が海老名弾正を招いて開かれました。
     海老名弾正は熊本バンドの一員で、花岡山結盟後の6月ジェーンズから洗礼を受け、9月同志社神学校に移り、新島襄の薫陶を受けて卒業。上州安中教会の牧師となりました。横井小楠の長女みや子(熊本洋学校の共学・女子生徒)と結婚し、前橋教会や本郷教会を創立し、熊本に熊本英学校、熊本女学校を創立したキリスト者です。大正9年から昭和3年まで同志社大学第8代総長を務めました。遠山先生の先輩です。
     その海老名弾正を招いて、29日は9時から九州学院で伝道講演が行われ、午後3時からは五高瑞邦館で、午後7時からは県会議事堂で行われました。
  3.  1月30日には花岡山鐘懸松の前で「熊本バンド」奉教記念会が行われました。これは、その時の記念写真です。奨励をした海老名弾正や遠山院長を始め、遠山先生の五高教授時代の教え子・齊藤惣一。齊藤惣一は五高英語科教授で後に日本YMCA総主事になります。当時医業の傍ら熊本女学校の任にあった福田令寿(よしのぶ)先生。九州学院神学部学生だった石松量蔵。石松量蔵は後に日本福音ルーテル教会の牧師となった全盲の神学生でした。他にも有名なキリスト者が集まっています。後ろに立っているのは五高キリスト者青年会「花陵会」の学生たちです。前に座っているのは遠山院長に引き連れられて登ってきた九州学院の生徒たちです。九州学院では、前年の大正3年、校訓に「敬天愛人」が定められ、学院の献身志望者で「黎明会」が組織されました。たくさんの生徒たちが日本福音ルーテル熊本教会の礼拝に出席し、ブラウン宣教師から洗礼を受けていました。
     大正3年に定められた校訓「敬天愛人」とともに、熊本バンドの精神が、九州学院の創立の精神に息づいているのです。
  4.  その後も海老名弾正先生は、機会あるごとに九州学院を訪れ、伝道講演をしています。熊本英学校(九州学院の隣り、現・交通局の所にあった。1881年・明治21年~1896年・明治29年)を設立し校長を務めた海老名弾正は、ルーテル派の九州学院こそ熊本英学校のキリスト教主義教育を引き継いでいる学校だと期待していたのです。昭和3年に九州学院を訪れたとき、海老名弾正は同志社大学第8代総長を務めていました。
  5.  明治9年8月、熊本洋学校が廃校になると、遠山参良(サブロウ)少年は、海老名弾正や3回生の岡田松生(まつお)らに引き連れられて同志社に入学します。同じ八代郡出身で1歳年長の内田康哉(こうさい)もいっしょでした。内田康哉は遠山先生の親友で、後に東京帝大法科卒業後、外務省に入り、大使として欧米やロシアに駐在。外務大臣や南満州鉄道総裁、枢密顧問官、貴族院議員を歴任しました。熊本バンドを始め、そうした熊本の英傑たちが、創設まもない同志社英学校に入学したのです。
     同志社は1875年(明治8年)11月29日、京都府知事・槇村正直と府顧問・山本覚馬の賛同を得て、官許「同志社英学校」として開校しました。教員は、前年アンドーヴァー神学校を卒業して帰国した新島襄とJ.D.デイヴィス宣教師でした。新島襄が初代社長に就任し、生徒は8人でした。
  6.  1876年(明治9年)1月、新島襄は山本覚馬の妹八重と結婚。9月、今出川校地へ移り、そこへ熊本洋学校から40人ほどの生徒たちが入学して来ました。その中に遠山参良(サブロウ)少年もいたのです。しかし、熊本洋学校で「自助の精神」を身につけ、高いレベルの学問を習得した「熊本バンド」の生徒たちは、同志社の講義のレベルに不満だらけでした。聖書や神学の講義でも議論が絶えませんでした。また、東山に登って「熊本バンド」の聖餐式を行ったことも大問題になり、彼らのほとんどが同志社を退学しようとしました。さすがの新島襄も「熊本バンド」の生徒たちには手を焼いて、夜ひそかに涙で枕を濡らすほど、心労が絶えませんでした。
  7.  そこで、熊本洋学校退官後、大阪専門学校の教師になっていた恩師ジェーンズがデイヴィス宣教師の所に来て、「熊本バンド」の気骨ある生徒たちに説きました。「同志社を君たちの望みを満たすに足る学校とせよ。」と。
     彼らは学校に帰って、改革案をつくり、新島校長に進言しました。改革案は、学則を普通科と神学科に分けて、普通科は熊本洋学校の学則に準じたものでした。新島校長は、その中の1,2ケ所を訂正しただけで、全部採用しました。この学則と寄宿舎の塾則が初代同志社の規則となって、学校は運営されたのでした。同志社の礎は「熊本バンド」によって築かれたと言っていいでしょう。
     こうしたキリスト教に基づく自立した精神を育む同志社で、遠山参良(サブロウ)少年も3年間学んだのでした。
  8.  遠山先生が同志社に在学していた証拠となる学籍簿等の資料が同志社に残っていないので、今まで遠山先生自身の履歴書に頼っていましたが、今回、資料の中に探していた証拠を見つけました。この新島襄直筆による同志社初期の寮の部屋割表によると、遠山参良は、東寮2階の南東の部屋に、窪田、小林と3人で生活していたことが判明しました。新島襄がこの寮の部屋割表を描いたと思われる明治10年3月、熊本は西南の役の真っ只中で、西郷軍によって熊本鎮台司令部が置かれた熊本城天守閣は炎上し、城下には火が放たれて市街は焦土と化していました。
     熊本洋学校を卒業し、同志社の礎を築いた「熊本バンド」の先輩たちと寮で生活しながら、故郷熊本の惨状を思いやり、遠山参良は同志社英学校でキリスト教精神に基づく人格を形成して行ったのです。
  9.  1879年(明治12年)6月12日、同志社英学校第1回卒業式が行われ、「熊本バンド」の生徒たちが卒業しました。遠山参良は同志社を卒業することなく、故郷・熊本に帰りました。同志社に残って学業を続ける意義を見失ったのでしょう。
     明治10年の西南の役では、2月19日に熊本城天守閣が炎上。熊本城下の市街は焦土と化していました。まだ焼け跡の残る明治10年10月、現・熊本市本山に広取(こうしゅ)学校が開校。熊本洋学校の教育課程を引き継いでいました。京都から熊本に帰った遠山参良は、明治12年9月(13歳)、この広取学校に入学し、1年間学びました。しかし、その教育内容に飽き足らなかったのでしょう。翌明治13年9月には鏡英学校(私学岡田英学校)に入学し、明治17年まで4年間学びました。校長の岡田松生は「熊本バンド」の一員で、同志社第1回卒業生でした。遠山参良少年を同志社に連れて行った熊本洋学校の3回生の先輩です。
     また、鏡町内田の名和童山からも漢学や英学を学びました。明治の偉大な教育者で、新川のほとりに童山が開設した「私立変則中学新川義塾」がありました。

第3部 加伯利英和学校・鎮西学院、ウェスレアン大学留学、第五高等学校へ

  1.  1884年(明治17年)9月(18歳)、遠山参良は長崎市大浦東山手の私立加伯利(カブリ)英和学校に入学しました。後の長崎・鎮西学院です。
  2.  「加伯利英和学校」は、米国メソジスト監督教会外国伝道局から派遣されたC.S.ロング博士が、長崎在住の宣教師デビソン博士の協力を得て、1881年(明治14年)10月に創設されました。授業は全部原書で行われ、月謝はわずかに20銭、寄宿舎の食費が1円20銭でした。学科は、英語、地理、タイハマーの古代歴史、生理、算術、十八史略、ホワイトの英文法、ユニオン巻四、グリーンのアナリシス、ペンマンシップ等でした。熊本洋学校に似ていました。
     創立当時、神学科、本科、予備科の三部が置かれ、各科ともに3ヶ年の修業でした。遠山参良は、英語普通科本科を1888年(明治21年)6月(22歳)卒業しました。遠山参良は、在学中の20歳頃、メソジスト(美以)教会で洗礼を受け、熱心なキリスト信徒となりました。
  3.  遠山参良は、加伯利英和学校を卒業すると、母校・加伯利学校の教師になりました。翌明治22年からは鎮西学館と名称が変わりました。鎮西学館の教師となった遠山先生は、英語、地理学、歴史、博物、哲学を担当し教えました。
     また、長崎出島のメソジスト(美以)教会では、説教や通訳で雄弁を揮い活躍しました。郷里の鏡に帰省した折には、熊本市の連合説教会に呼ばれて信仰的な篤い説教をしていたと言います。同僚と村落伝道にも出かけていました。
     しかし、明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布された時には、文部大臣森有礼がキリスト教徒とみなされ刺殺される事件も起きています。キリスト教は逆境の中にありました。明治24年1月には、第一高等中学校で内村鑑三「不敬事件」が起きました。そのような時代状況の中、明治24、25年頃、長崎では出島美以教会に集っていた鎮西学館や活水高等女学校の教職員・生徒たちに大リバイバル(信仰復興)が起こり、遠山先生も信仰に燃え立っていました。
  4.  1891年(明治24年)5月21日(25歳)、遠山先生は「灣潮外史」の筆名で『處世日誌』の記述を始めました。そこには、ひたすら信仰の道を探究する遠山先生の内省が記されています。
  5.  1892年(明治25年)、遠山先生は鎮西学館を辞任し、5月、米国オハイオ州デラウェア市のウェスレアン大学に留学しました。ウェスレアン大学はメソジスト系の学校でした。留学中の1864年(明治27年)8月1日には日清戦争が勃発し、極東でいち早く西洋化を成し遂げた日本は大国清国と戦いました。遠山先生は、ウェスレアン大学で日清戦争について日本の立場を弁じ、それが新聞に載ったと伝えられています。翌年6月にウェスレアン大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受領します。更に学業を続け、1896年(明治29年)6月にはMaster of Science(理学修士)の学位を受領しました。
     アメリカに留学して5年後の1897年(明治30年)9月、31歳で日本に帰って来ました。遠山先生はウェスレアン大学での5年間の留学生活を通して、国際人として世界的な視野を身に着けたメソジストのキリスト者として大きく成長し、帰国されたのでした。
  6.  アメリカから帰国した遠山先生は、1897年(明治30年)、鎮西学館教師に復職し、英語と生物学を担当しました。後に九州学院神学部の教師に招かれ、その後鎮西学院の第15代院長となった川崎升(のぼる)は、この時鎮西学館神学科の最高学年でしたが、遠山先生に教えを受けた一人です。
     この年、田中無津(明治3年生れ)と結婚。翌年、長男・不羈夫(ふきお)が誕生しました。不羈夫は、後に九州学院を卒業し、東京商大(現・一橋大学)に進学しました。
     1898年(明治31年)9月には、私立活水高等女学校講師に就任し、生物学を教授しました。
     明治30年6月25日には、横井小楠の息子・横井時雄が、同志社第3代社長・総長に就任しました。横井時雄は、熊本バンドの一人で、邪教であるキリスト教を蔓延させたという風評によって父・小楠が京都で暗殺された後、横井姓を名乗ることをはばかって、しばらく伊勢時雄と称していました。
  7.  1899年(明治32年)7月、遠山先生は、第五高等学校英語科主任教授・夏目金之助(漱石)と面接します。五高では、漱石の第一高等学校時代の同級生で英文学者の山川信次郎が第一高等学校に招聘されたため、その後任を探していたのです。遠山先生は、五高英語科講師招聘を受諾しました。
     その後、遠山先生は、鎮西学館および活水高等女学校を辞し、8月7日、第五高等学校英語科講師として赴任しました。
     1900年(明治33年)1月22日には、第五高等学校教授を拝命し、花陵会(五高キリスト者青年会)の中心的指導者として活動されました。龍南会の弁論部部長も務めました。9月4日には、夏目漱石の後任として、第五高等学校大学予科英語科主任を拝命されました。「命令簿」(明治39年9月11日付け)には、「第一部第二年丙組 教授 遠山参良」と記されています。

第4部 ブラウン宣教師との出会い、第五高等学校教授時代

  1.  1899年(明治32年)7月、熊本の第五高等学校で夏目金之助教授との面接を終えた遠山先生(33歳)は、列車に乗って長崎への帰途に着きました。同じ列車に、熊本で伝道活動をして佐賀に帰る途中のブラウン宣教師(25歳)が乗っていて、二人は運命的な出会いをしました。これが、ルーセラン・ミッションスクールとして誕生した九州学院創設の原点です。
     ブラウン宣教師は翌1900年(明治33年)12月、家族とともに熊本に移住し、熊本在留最初のルーテル教会宣教師として熊本伝道を開始しました。そして、5年後の明治38年6月20日、熊本市水道町にルーテル熊本教会堂を献堂しました。
     遠山先生が使っておられた明治時代末の「九州鉄道線路案内」。遠山参良先生蔵書遺本の「世界地図」(HAMOND’S MODERN ATLAS of THE WORLD,NEW YORK,C.S.HAMOND & COMPANY,1905)に挿まれていました。
  2.  1900年(明治33年)5月の第五高等学校教授陣と学生たちの写真です。中央の櫻井校長の右隣(⇐)が夏目金之助(漱石)教授で、そのすぐ背後(⇓)に遠山参良教授が写っています。前から2列目左から2人目(⇓)が奥太一郎です。奥は、夏目漱石の友人で、後に九州学院に赴任します。遠山先生は、漱石から篤い信頼を寄せられていました。
  3.  1900年(明治33年)7月、夏目漱石は英国留学のため熊本を発ち、東京へと向かいます。出発する前に、第五高等学校英語科主任教授を遠山参良が引き継ぎ、7月上旬に市内で送別会が催されました。前列右が羽織袴の漱石、前列左が英語科の同僚・奥太一郎、後列左が詰襟姿の遠山参良先生です。遠山先生が1911年(明治44年)、九州学院の初代院長に就任すると、奥太一郎も1920年(大正9年)、九州学院に赴任しました。奥はルーテル教会信徒で、後に日本女子大学の教授になりました。これは、熊本市新町の富重写真館で撮影したとみられています。
  4.  第五高等学校では、毎年10月10日の開校記念式で職員総代が祝詞を奉読するのが慣例となっていました。1897年(明治30年)、第7回開校記念式では夏目金之助(漱石)教授が祝詞を奉読しました。遠山先生は、五高教授陣の中でも総代を務められるようなクリスチャンの学者・人格者として、五高の学生達からも絶大な敬意を寄せられていました。
  5.  「剛毅朴訥」の気風を謳歌していた第五高等学校の図書閲覧室にも、「敬天愛人」の額が掲げられていました。いつ、誰によって掲げられたのかは不明ですが、遠山先生が係わっておられたのかもしれません。
  6.  遠山先生は、1911年(明治44年)に九州学院長に就任された後も、1932年(昭和7年)10月9日召天されるまで、第五高等学校の英語嘱託講師を兼任し続けておられました。九州学院から第五高等学校に進学した学生達が「五高九学会」を作っていました。その「五高九学会」の学生達と撮った写真です。
  7.  1910年(明治43年)前後の三年坂教会員(熊本メソジスト教会)の写真です。メソジスト教会の信徒であった遠山参良先生(最後列右から2人目)は、ブラウン宣教師と協力してキリスト教の布教のため、ルーテル教会の伝道活動にも熱心に取り組まれました。
  8.  大正期の紫苑会治療所の待合室と診療所の様子です。『百年史の証言 福田令壽氏と語る』より。
     1908年(明治41年)7月、無料診療所「紫苑会治療所」が、ブラウン宣教師が開設したルーテル熊本教会の講義所(坪井横町)に設けられました。これは、熊本キリスト教界の連合婦人会事業として起こした施療所でしたが、遠山先生は第五高等学校キリスト者青年会・花陵会の指導教授として、その紫苑会治療所の顧問をされていました。医師には、熊本医学専門学校嘱託教授として県医師会創設に尽力されていた福田令寿(よしのぶ)先生がおられました。福田令寿先生は、著名なキリスト者で、現・熊本県医師会長で九州学院理事の福田稠(しげる)先生の祖父に当たります。遠山先生の無二の親友でした。

第5部 九州学院の創立

  1.  1908年(明治41年)9月、日本福音ルーテル教会独自の最初の教育事業が具体化し、「私立熊本高等予備学校」が創設されました。所在地の番地は「大江村大江477」で、九州学院所在地番地と同じでした。校長はスタイワルト宣教師、幹事は熊本教会の山内直丸牧師が務めました。教授陣は、第五高等学校や熊本高等工業高校の教授達で、遠山先生が斡旋されました。遠山先生自身も「英語譯解」を教授されていました。しかし、翌年6月26日、突然閉鎖されました。
     1909年(明治42年)9月27日、「路帖(ルウテル)神学校」が新屋敷に開校しました。以前、九州学院みどり幼稚園があった所です。念願のルーテル教会の神学校が開校したのです。校長はブラウン宣教師が務めました。石碑には「1909年九州学院発症の地」と記してあります。路帖神学校からルーテル教会のミッションスクールが始まったからです。
  2.  1910年(明治43年)1月19日、「私立九州学院」の設立が認可されました。それで、創立記念日を1月19日としています。九州学院が開校したのは、翌1911年(明治44年)4月15日です。この日から学院教育が開始されたので、創設以来、この年を学院の始まりとしています。
     1910年(明治43年)9月、遠山先生は第五高等学校を依願退職され、10月から「私立九州学院」創立に従事されました。「路帖神学校」の講義も担当され、本科の弁護論と基督教倫理を教えられました。
     1911年(明治44年)3月18日、初代院長に就任(45歳)。ブラウン宣教師は主事に就任(37歳)し、二人三脚でキリスト教主義の学院づくりが始まりました。
  3.  1911年(明治44年)4月15日九州学院が開校すると、6月、「路帖神学校」は子飼町から大江の九州学院寄宿舎に移され、「九州学院神学部」に改組されました。まだ、本館校舎が完成していなかったので、1年目は寄宿舎を教室にして授業が始まったのです。
     これは、九州学院神学部に改組された神学校の教師と神学生たちです。前列左から鷲山誠晴(伝道師)、遠山参良院長(担当:弁護論、基督教倫理)、奥太一郎(五高教授、担当:心理学、論理学)、ブラウン神学部長(九州学院設立者、学院主事、南部一致ルーテル教会宣教師、担当:礼拝学、教理問答、教義学、ロマ書講解など)、ウィンテル教授(デンマーク・ルーテル教会宣教師、担当:教会史、旧約史、イザヤ書講解、聖書総論、ルターの著書講義)、高橋長七郎(ギリシャ正教会、担当:音楽)、秋元茂雄(日本基督教会牧師、担当:説教学、ヨハネ書講解、パウロ伝)
  4.  開校1年後の1912年(明治45年)4月、建築が遅れていた本館校舎がようやく竣工しました。開校以来、寄宿舎で授業を行っていた普通科と神学部の教室を移動し、学院教育が本格的にスタートしました。
     7月30日、明治天皇が崩御されると、時代は明治から大正へと移って行きました。
  5.  1913年(大正2年)になると、遠山院長やブラウン主事を始め、キリスト者の学院教師が分担して、聖書研究会が毎週開催されるようになりました。それと共に、九州学院キリスト者青年会が組織され、洗礼を受けて、ルーテル教会のクリスチャンになる生徒たちも数多く出ました。
     この年の4月末には、日本福音ルーテル教会宣教20周年記念会が佐賀で開催され、そこで、遠山院長、ブラウン主事、ウィンテル神学部教授、藤井教頭がそれぞれ演説をしました。ルーテル教会の宣教活動に、九州学院の各派のキリスト者教師たちも献身的に協力し、働いていました。

第6部 校訓「敬天愛人」の精神

  1.  西郷隆盛(南洲)揮毫の石刷り「敬天愛人」を題字に使った『敬天愛人』第1号(九州学院宗教部、大正13年2月1日発行)。
     1914年(大正3年)4月15日、校訓が「敬天愛人」に定められました。
     「敬天愛人」は、儒教道徳の色濃い日本国家におけるキリスト教主義学校の校訓として実にふさわしい標語でした。
  2.  「敬天愛人」の元は西郷隆盛の造語(『西郷南洲遺訓』にある)と言われていますが、それは間違いで、儒学者・中村正直(敬宇)が日本で初めて使った四字成語です。中村正直は、1868年(明治元年)イギリス留学から帰朝後、「敬天愛人説」を著し、1871年(明治4年)7月、サムエル・スマイルズの“SELF-HELP”(『西国立志編』・『自助論』)を訳出刊行しました。この『西国立志編』でも、「敬天愛人」を要の語句として使っています。
  3.  遠山院長の蔵書に、サムエル・スマイルズの“SELF-HELP”(中村正直訳『西国立志編』・『自助論』)と“CHARACTER”(中村正直訳『西洋品行論』・『品行論』)があります。
     遠山院長の「自分で自分を監督し、役に立つ善人たれ」の教育指針には、「天はみずから助くるものを助く」“Heaven helps those who help themselves.”で始まる『西国立志編』の自助の精神が息づいていると思われます。この自助の精神は、遠山参良(さぶろう)少年が、ジェーンズの熊本洋学校で最初に出合った西洋の近代精神でもありました。こうした西洋近代プロテスタンティズムの精神に基づいた「敬天愛人」を、九州学院の校訓としたのです。
  4.  第五高等学校英語科主任教授・遠山参良の先輩であった夏目漱石は、1916年(大正5年)12月9日に亡くなる1ヶ月前に、この「則天去私」の四文字を揮毫(きごう)しました。亡くなる前の木曜会の席上で門下生に対し、「則天去私」の心境を語ったと伝えられ、漱石の晩年の境地を表す四字成句として知られています。弟子の松岡譲や久米正雄らが、この成句について言及しています。「天に則って私を去る」といった読み方が妥当かもしれません。天命や自然に従って、利己的な私、小さな存在である私を去れといった意味が込められているのでしょうか。定かではありませんが、近代的エゴイズムの問題に苦悩していた漱石の晩年の心境が込められているようです。
     遠山先生が九州学院の校訓に定められた「敬天愛人」はどうでしょう。天なる神を敬い、人を愛する。神への信仰によって、自分を愛するように、隣り人を愛する。利己的な私を乗り越えて、他者を愛するのです。まさに、キリスト教精神によって作られた四字成句です。この校訓の下、より具体的な指針として示されたのが、遠山先生の「自分で自分を監督し、役に立つ善人たれ」です。遥かな存在である神様の前で、自分を自分でしっかりと見定め自省する。そして、人を愛することのできる心を持つ人格を育み、将来、世のため人のため役に立つ善い人になりなさい。そのため、九州学院で学び、共に成長するのです。人の魂を導く力強い言葉と言ってよいでしょう。
  5.  遠山先生が天に召された1932年(昭和7年)10月9日を記念して、毎年、この日を中心に「創立者の精神を覚える会」を行っています。遠山先生顕彰碑は、以前、熊本駅の西側にある万日山山頂にありました。それで、毎年、遠山先生を覚える記念日には、中学・高校の1年生が全員、万日山に登り、顕彰碑とお墓の前で記念礼拝を行っていました。
  6.  しかし、建築後70年以上経ち、老朽化が目立っていましたので、2007年(平成19年)に学院内の現在の場所に移設されました。分骨されていた遺骨は、八代市鏡町の遠山家代々の墓に納められました。それ以来、ブラウン・メモリアル・チャペル前の現在の遠山先生顕彰碑前で記念礼拝を行っています。
  7.  顕彰碑に刻まれた漢文体の「遠山先生謝恩記」を訳した文章が、右側の銅板プレートに刻まれています。これは、第2代院長の稲冨肇先生が記されたものです。皆さんもその碑文を読んで、創立者の精神に思いを馳せてください。

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